今週のお題「鬼」
今回、初めて、お題スロットのテーマを先行したかもしれない。
鬼とは一体、何を指しているのか?
ヒントは「牛と虎」
詳細は、既に書いてしまったので興味のある方は以下を参照して欲しい。
更に言えば、穏田神社が節分企画として、出したテーマそのものではないのだろうか?
渋谷と原宿の間に位置する「穏田神社(おんでんじんじゃ)」(渋谷区神宮前5)が現在、節分企画を展開している。
「みんなで呼ぼう福の神。みんなで払おう鬼は外。みんなの節分」と銘打ち展開する同企画。「退治したい鬼」=嫌なことや変えたいことなどと、「招き入れたい福」=目標や取り組みたいことなどを紙に書いて貼れる特設掲示板を用意し、掲示された用紙に宮司の船田睦子さんがコメントを寄せている。
「神社には、何か祈りたいから来るのが最大の目的だと思うが、それだけでなく御朱印や、アニメの聖地になっていることなど、それ以外の理由の方も多い。参拝目的をいっぱい増やして、何が目的でも良いが当社や、神社がどういうものか知ってもらいたい」と言い、「誰かを大切に思うことは、自分のことも大事に愛することが大事。忙しい生活なか、5分でも良いからご自身の心を置いてけぼりにしないで大事にしてほしい。そういうことを考えられる場所になりたい」
鬼の口の中には追い出したいことを豆の付箋に書いて貼り付け、福の口の中には招き入れたいことを豆の付箋に書いて貼り付ける。
神社に願いことをする方法として、節分を利用するというのは面白いと思う。
更に、ツイッターやインスタグラムに投稿すると、宮司の方がコメント(全部は難しいとのこと)してくれるという。
また、当社Instagram・Twitterでも同時に募集いたします!
「#穏田神社 #退治したい鬼」
「#穏田神社 #招き入れたい福」でハッシュタグをつけて投稿してください。
全部は難しいですが、なるべくコメントさせていただきます!
(投稿者のアカウント名は個人情報のため消します。全ての投稿にコメント、シェアは出来かねますのでご了承ください。)
ということで、自分なら何を「鬼」の口の中に貼り付けて、何を「福」の口の中に貼り付けるだろうか?ということで考えてみることにした。
鬼の口の中
「罪を憎んで人も憎まず」ではなく、どちらかというと「罪を憎まず人を憎む」傾向が強いので、「人を憎む」という気持ちを自分の中から追い出したい。
最近は、「罪を憎まず人を憎む」という人が多くなっているとか。
そして当人は、そのことに気が付いていない。
最近、自分もその傾向があるような気がしてきている。
例えば、「飲酒運転」で事故を起こした場合、「飲酒運転」という罪よりも「飲酒運転」を行った「運転手」の方を憎んでしまう。
これは、罪を犯したのは「運転手」であり、「飲酒運転」に罪はないという見方が強いからだと思う。
実際、自分と同じように「反応」してしまう人は多いのではないだろうか?
SNSで、何気なく呟いた内容が、批判を浴びて炎上する。
中には批判を浴びた方が「自死」を選択してしまうことも起きている。
だったら、裁判は不要だという言い分が出てくるかもしれない。
人を憎まずなら、人に罪はないことになる。
刑罰は誰が受けるのか?憎む対象である「罪」が受けるのか?
「罪」に懲役刑を与えても意味がない。だったら、裁判なんていらない。
ということになるのではないだろうか?
「罪を憎んで人を憎まず」というのは、孔子の言葉だと言われている。
どういう場面で孔子が話したのかが気になったので調べてみた。
昔の裁判官は、「其その意を悪にくみて、其の人を悪まず(悪いことをしようという気持ちは憎むが、その人そのものまでは憎まない)」という態度で裁判に臨み、どうしても避けられない場合だけ処刑していたのに対して、今の裁判官はその逆だ、と述べています。日本では、「意」が「罪」に変化した形で定着しています。
これって「裁判の時の裁判官の心得」ってこと?
それに、「意」が「罪」に変わっている?
え?そうすると、判決を下す立場でなければ、人を憎むことは仕方ないってこと?
これが正しいなら、「罪を憎んで人を憎まず」ではなく、「罪の意を憎んで、人を憎まず」という意味になる。
そして、それは裁判の時の裁判官の心得になる。
ただ、罪だけを見て、なぜ、その罪を犯したのか?を見ていないと本質を見失うことになるので、「罪」と「人」だけに捉われず「罪の意」をしっかりと見ようとする姿勢は裁判官でなくても必要な心構えだと思うので、「罪の意」に注目する姿勢は大切にしたい。
福の口の中
何を自分に招きたいだろう?
「お金」?当然、招きたい(笑)
「幸せ」?もちろん、招きたい(笑)
福を招くのに、綺麗ごとを言っても仕方ないと思う。
ただ、「幸せ」については、ハードルの高いことにしか幸せを感じられないというのではなく、些細なことでも幸せを感じられるようになりたいと思う。
川の音、鳥の鳴く声、咲いている花、草花の香り、雨粒の美しさといった注意しないと感じることができないような些細なことに対して感動する心をいつまでも持ち続けたい
自分自身の気持ちが嵐の海のように荒れていては感じられないので、平安な心で常にありたいと思う。
そうすると、「お金」でも「幸せ」でもなく、「平安な心」を招きたいということになるのかもしれない。