漫画「鬼滅の刃」が大ヒット
マンガが大ヒットして、コミックの売上ランキングベスト10が全て「鬼滅の刃」という時もあった。
そしてマンガをアニメ映画にすれば、これまた大ヒット。
主題歌を歌った歌手の方やアニメの声優さんまで一躍、時の人になってしまった。
とはいっても、自分は、漫画は読んでいないし、アニメは数話だけ見て自分には合わないように感じたので、詳しくは知らない(笑)
泣いた赤鬼
鬼というのは、昔から悪い奴というイメージがある。
しかし、子供の頃に読んだ、「泣いた赤鬼」では優しい鬼として描かれていた。
泣いた赤鬼のストーリーは以下のような感じだったと思う。
山奥に1軒の家があり、そこには心優しい赤鬼が住んでいた。
赤鬼は人間と友達になりたかった。
そこで、家の前に「一緒にお茶を飲んでお菓子を食べましょう」という看板を立てた。
それを見た人間達は、「鬼は人を食べるんだ、お茶やお菓子に騙されてはいけない」と赤鬼の家に入ろうとはしなかった。
悲しんでいる赤鬼のところに親友の青鬼がやって来て、なぜ悲しんでいるのかを尋ねた。
赤鬼が悲しんでいる理由を知った、青鬼は赤鬼に提案をする。
青鬼が人間が住む村に行って暴れるので、赤鬼は、それを止めて、青鬼をやっつけてくれれば、人間は赤鬼のことを優しい鬼だと認めてくれて人間と友達になれると言った。
赤鬼は親友をやっつけるなんてことはできないと断るが、青鬼は心も体も強いから大丈夫だと赤鬼を納得させた。
そして、青鬼提案通りに、赤鬼は人間と友達になることができた。
赤鬼は、青鬼を思いっきり殴ったり蹴ったりしていたので、青鬼の怪我が心配で青鬼の家を訪ねた。
しかし、家には赤鬼への手紙が残されていた。
手紙には、青鬼と一緒にいるところを人間に見られてしまうと、赤鬼は嘘つきだということになり人間は赤鬼から離れて行くので、もう会わない方が良い。
だから、自分は旅に出るというものだった。
その手紙を見た、赤鬼は、泣き続けた。
人間を選ぶのか?親友を選ぶのか?という2択で、赤鬼は人間を選んだことになる。
嘘をついて人間と友達になっても、いつかは、バレてしまえば、その瞬間、人間は離れていく。
そんな2択を迫られた時に、自分はどちらを選ぶだろうか?
青鬼は、自分が悪者になっても親友の願いを叶えてあげたいと思うだけでなく、行動に移してくれる、とてもいい奴だと思う。
だから、そんな青鬼を犠牲にして人間を選ぶという選択は自分にはないと思う。
それは子供の頃も同じだった。
人間でも「鬼」のような人は沢山いる。ましてや青鬼のように自分が犠牲になってでも赤鬼の夢を叶えさせてあげたいと思ってくれる人はどれだけいるのだろうか?
子供の頃は、ここまで人間に対して悪いイメージはなかったが、大切な親友に辛い思いをさせて自分の夢を叶えたいという気持ちは理解できなかった。
鬼とは?
鬼というのは元々亡くなった人の魂であり、形のあるものではなかった。
このため、鬼という文字は「死体」を表した象形文字になる。
鬼は、怨念を持った霊や邪悪な怨念を意味している。
陰陽五行で方角は、北は子(ね)から始まり十二支の順で、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥が時計回りで方角が割り当てられている。
そして、「鬼門(鬼が出入りする方角)」は北東とされている。
北東(鬼門)は、丑と寅の間になり、頭が丑、身体が寅になり、頭には角が生えて、虎のパンツをはいた、鬼の姿となった。
泣いた赤鬼では赤鬼と青鬼だけだったが、仏教では、他にも黄鬼、緑鬼、黒鬼もいる。
これは五蓋(ごがい)という5つの煩悩を色ごとに示している。
- 赤鬼:貪欲(どんよく)・・・渇望・欲望
- 青鬼:瞋恚(しんに)・・・怒り・憎しみ・敵意
- 黄鬼:惛沈・睡眠(こんじん すいめん)・・・倦怠・眠気
- 緑鬼:掉挙・悪作(じょうこ おさ)・・・心の浮動、心が落ち着かない・後悔
- 黒鬼:疑(ぎ)・・・疑い。信頼の欠如
節分で豆を鬼にぶつけることで、この5つの煩悩を打ち勝つことができるようにという願いを込めている。
なぜ、豆なのか?というと、日本人は農耕民族だったので「五穀」(米、麦、ひえ、あわ、豆)に災いを払う霊力があると信じられてきた。
この中でも、豆は、「魔(鬼)を滅する」→まめということから豆になったようだ。
仏教では鬼は人間の煩悩に住むとされている。
そして、鬼が住むと災いの元となる。
桃太郎は善か悪か?
鬼が出てくる話として、有名なのは「桃太郎」
桃太郎は、大きな桃が川を流れてきて、それを見つけたお婆さんが桃を割ると中から男の赤ん坊が出てきた。
その赤ん坊には、桃から生まれたということで桃太郎という名前をつけた。
桃太郎は、鬼ヶ島にいる鬼が時々、村に来て悪いことをするので村人が困っている。
そのため、鬼ヶ島へ犬・猿・雉を従えて向かって鬼退治をするという話になる。
この話が、今では理不尽な話だということになっている。
その理由として、鬼だというだけで退治にいったのが理不尽だということらしい。
いつから、「鬼」だという理由だけで鬼退治に行ったという話に変わったのだろうか?
昔話だった桃太郎を再生成したのは、巖谷小波(いわやさざなみ)氏
巖谷小波氏の「桃太郎」の中で、鬼のことを以下のように書いている。
- 「日本の国に寇を為し、人を取り喰らい宝物を奪い取る世にも憎き奴」
この文によれば、ただ鬼だから退治しようとしたのではなく、鬼が悪い奴だからということになる。
芥川と福沢は桃太郎否定派
芥川龍之介や福沢諭吉も「桃太郎」に対しては批判的だったということで、芥川流の夘助は「桃太郎」という話、福沢諭吉は「ひびのおしえ」という教訓集で桃太郎について書いている。
芥川龍之介の物語では桃太郎は以下のように悪として描かれている。
- 桃太郎は「腕白ものになり、お爺さん、お婆さんに愛想を付かされていた」
- そして、お爺さんやお婆さんのように仕事に出かけるのが嫌だったから「鬼退治を思い立った」
- それを聞いた、お爺さんとお婆さんは厄介払いができると喜んだ。
- 美しい楽土(鬼ヶ島)で生を享けた鬼は平和を愛していた。
自分が知っている桃太郎とは真逆の設定になっている。
つまり、桃太郎という昔話の中では「鬼」が悪者という設定にされているが、本当に鬼は本当に悪い奴だったのか?という話になる。
そうなれば、巖谷小波氏が書いた内容云々ではなく、それ以前の話になる。
桃太郎が悪で鬼が善だった場合、確かに桃太郎の話は全く違ったものになる。
それでも、自分は鬼というのは、人間の煩悩に住むものであり、人間にとっては取り除くべきものと考えた場合、鬼退治は煩悩を取り除く物語だと思う。
鬼ヶ島という煩悩に住んでいる鬼を人間の意志である桃太郎が退治するという内容を子供にもわかるように物語風にしたのが桃太郎という昔話なのではないか?と思う。
鬼は実在しないものなので、悪い奴という表現はおかしいが、子供にもわかるようにするには悪い奴に喩えるのは仕方ないような気がする。
芥川龍之介の桃太郎は、こういう考え方もあるんだという意味では面白いので興味のある方は読まれてみては?
ちなみに、青空文庫で無料で読めるので以下にリンクを貼っておく。