ティク・ナット・ハン師が、2022年1月22日に、95歳の生涯を閉じられた。
師がこの世からいなくなったと思った時には、正直、心細くなった。
このため、その日のブログには、自分の気持ちを書くことができなかった。
子供が親元から離れて一人暮らしをする時のような心境だった。
ティク・ナット・ハン師
師はベトナム人でありながら、ベトナム戦争に反対を唱えていたために、国外に追放されて亡命生活を送ることになった。
そして、師は1982年にフランス南西部の広い土地に「プラムヴィレッジ」を設立した。
そこには200人以上の僧侶が暮らし、年間1万人以上の人が「マインドフルな暮らし方」を学ぶために世界中から訪れるようになった。
しかし2014年11月11日に脳梗塞で倒れられて、右半身は麻痺、話すこともできなくなってしまった。
師は残りの日々を16歳に出家したベトナムの慈孝寺で暮らすことを希望した。
話すこともできない身体だということから、ベトナムも受け入れてくれて2018年に無事、帰ることができた。
しかし、国内外に多数の信者を抱える師のような存在はベトナム政府にとっては脅威なのか、秘密警察による監視が行われた。
それでも、師は祖国に帰ってきたことを非常に喜ばれていた。
微笑みを生きる
呼吸を意識することの重要さを教えてくれたのが、師が書かれた「微笑みを生きる」という本で、今ではマインドフルネスが普及して呼吸を意識するというのはかなり浸透しているが、それ以前は、仏教を学んでいる人や仏教書を読んでいる人くらいしか知らなかったことだと思う。
この本は難しい仏教用語などは使わずに簡潔な言葉で師の教えが書かれているので、師のエッセイを読んでいるかのような感じで気楽に読むことができる。
師の本は色々と読んだが、全てはこの本に書かれているので今では自分のバイブルのような存在になっている。
「いま」「ここ」の自分に気づき、苦悩や不安をやすらぎに変える瞑想法や、個人の平安を世界の幸福に導く実践論を、平易で詩的なことばで綴ったティク・ナット・ハンの仏教思想のエッセンス。
呼吸を意識する
呼吸を意識するというのは、「息を吸いながら私はいま吸っていることに気づいている」「息を、吐きながら私はいま吐いていることに気づいている」これだけを行なってみろところから始まる。
慣れてくれば「吸う」「吐く」の2語だけでできるようになり、更に慣れてくれば言葉さえ不要になり呼吸と一体化できるようになる。
これは、どんな時でも行えるので、ちょっとした待ち時間でもできてしまう。
本やスマホ、といったものは何一ついらない。
呼吸を意識することができれば、色んなことを意識できるようになる。
食事の時に、
- 箸でご飯をつまむ。
- ご飯を口に運んでいる。
- ご飯が口に入った。
- ご飯を噛んでいる。
- ご飯を味わっている。
- ご飯を飲み込んだ
といった具合に自分が行っていることを意識することができるようになると頭がスッキリする。
何のために意識するのか?といえば、「考えることを減らす」ということ。
自分も会社では仕事をしていると色んなことを考える。
- 今日はxx時から会議なので準備をしとかないといけない。
- 明日までに終わらせないといけない案件がある。
- 今日の昼は何を食べようか?
起きている間中、未来のことや過去のばかり常に考えている。
今を意識するということはない。
これでは、起きている間、ずっと休むことなく、走ったり、歩いたりしているようなものだ。
こんなことをしていれば、頭は疲労困憊になる。
今を意識することは、立ち止まることになる。
そして今を意識している間、脳は休むことができる。
Interbeing(相互共存)
師の教えで、最も大切なことは?と言われると、呼吸を意識するということだと思う。そして、次に大切な教えが、「Interbeing」になる。
「Interbeing」は彼の造語で、日本語だと「相互共存」という意味になる。
この教えは自分の考え方を変えてくれた。
もしも、あなたが詩人なら、この紙のうえに雲が浮かんでいるのが、はっきり見えることでしょう。雲がなければ雨は降りません。雨が降らなければ、木は育ちません。そして木がなければ、紙はできないのですから、この紙がこうしてここにあるために、雲はなくてはならないものなのです。
もしここに雲がなかったなら、ここにこの紙は存在しません。
それで、雲と紙はインタービーイング(相互共存)しているといえるのです。
それで、「インター」という接頭語を、動詞の「ビー」につけて、インタービーイングという新しい言葉を作りました。
【出典】春秋社 微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践
この本を買った時は一気に読んでしまい、その後も何かある都度、目次を見て関係ありそうな箇所や、パッと開いたページを読むということを繰り返していた。
今では本を開くことはなくなった。
それほど、繰り返し読んだ結果だと思う。
自分にとっては、師のような存在とも言える。
師はそこにいる
1月23日は、心細さから久々に、本を取り出してきた。
パラパラとページをめくり、文章を読んでいると久々に師に教えを頂いているかのように感じられた。
そして、目に飛び込んできた。
インタービーイングの箇所だった。
もう少しこの紙を見ていると、私たち自身もこの紙の中に見えてきます。ここに自分を見つけるのは、そうむずしいことではありません。というのは、私たちが何かを見る時ときには、視覚という知覚作用を働かさなければ見えないからです。だからあなたのこころも、私のこころも、ここに参加しているのです。この1枚の紙の中には、あらゆるものが入っているのです。ここにないものをひとつでも探すことはできません。時間、空間、地球、雨、土壌のなかの鉱物、太陽の光、雲、川、熱・・・すべてのものが、この1枚の紙に共存しているのです。
【出典】春秋社 微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践
そして師からの声が頭に響いてきた。
呼吸を意識すれば、師と自分は同じ対象を意識していることになる。
すると、そこには師が見えてくる。
道端の「たんぽぽ」を見ていれば、師もそこにいる。
何より、この本を読んでいれば、師もそこにいる。
今、自分があるのは師がいるからで、師もほかの全てのものが今、ここにあるから存在している。
今までと何も変わってはいない。
そこに気が付くと、心細い気持ちは消えていた。
師はいなくなったわけではない。
今を意識していれば、師もそこにいる。
今は師への感謝の気持ちしかない。