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普通の生き方がなくなる

普通の生き方?

年が明けて、ふと、これからの生き方について考えてみたくなった。

これまで、正直、生き方なんて考えたことなんてなかった。

最初に頭に浮かんできたのは、「普通」

意味は、一般的、平均的。

このため、「普通」というのは自分が生きている環境(国・時代・社会等)、そして環境の変化で変わってしまうもの。

このため「普通」とは自分で決められるものではなく色んな人達の価値観・考え方によって自分の意志とは関係なく変化していく。

つまり、「普通」に生きることを選択するということは、色んな変化に対応していくことを選択するのと同義になる。

「普通」は「個」の方向に変わっている。

日本では従来、「結婚してマイホームを持って子供を育てる」という絶対不変のような「普通」がある。

普通は変化する

しかし、徐々にその「普通」が変化してきている。

厚生労働省の「令和2年国勢調査」では50歳時点の未婚率は男性で28.25%、女性で17.85%で過去最高を記録している。

また、厚生労働省の「令和2年出生動向基本調査」によれば、20歳の未婚者のうち、異性と交際経験がない人の割合は、男性で38.4%、女性で23.5%で、こちらも過去最高を記録している。

これは海外で作られた「普通」が日本の「普通」に強く影響しているからだと思う。

日本人の憧れのような存在である、米国では個人主義という考え方が「普通」で人生は個人の価値観によって自由に選択できることが重要視されている。

これは、米国が移民の国であり、その結果、さまざまな人種・民族が混在している。

そうすると、ライフスタイルも、人種や民族、宗教などによって、多様化せざる得ない。

そして日本も、従来は「単一民族国家」だったのが、今は国際化が進んできたことで米国と同様に異なる民族や文化が海外から入ってきている。

そんなことからこれまで、日本では縁のなかった「多様性」という考え方が「普通」になっていくものと思われる。

その結果が、先に挙げた、未婚率、異性との交際経験のない割合の数字に表れてきているのだと思う。

「普通」に生きるということは、日々変化していく「普通」を追いかけることになる。

日々変化していくので、追いつくことができたとしても、直ぐにまた前に行ってしまう。

そんな生き方が、良かったと思えるだろうか?

自分の意志とは関係ないものを追い続けるだけの生き方なんて、つまらない。

色んな人と共存していくのであれば「共通のルール」は必要。

多様性だからといって一緒に生きるのであれば、「譲るべきルール」というのは絶対に必要になってくる。

今の日本は「普通」が「集団から個」への変化している途中なので、「共通のルール」は、まだ集団ベースで作られている。

そして、日本は単一民族だったので、かなり狭い視野で作られているはずだ。

元々、単一民族だった日本が多様性を取り入れるということは、「共通のルール」を全面的に作り変える必要があるということ。

そして日本での「共通のルール」の中には「憲法・法律」が存在する。

つまり日本が多様性を受け入れることは、単一民族国家から多民族国家に変わることを選択することになる。

そうすると、単一民族がベースに作られた法律を多民族ベースに改正する必要がある。

そうすると、法律のベースとなっている憲法も多民族ベースに改正せざる得なくなる。

これは、色々な人種・年代・性別の人を含めて議論する必要があると思う。

鎖国と重なる

多様性と鎖国政策がどうしても重なってしまう。

鎖国をしていた頃の日本は、外国の宗教であるキリスト教が、日本に入り込んでくると、日本の伝統的な価値観や社会秩序を脅かすものとなると考えていた。

「多様性」はまさに鎖国をしていた頃の日本にとっての「キリスト教」のような存在ではないだろうか?

「多様性」を受け入れれば、日本の伝統的な価値観や社会秩序が変わることになる。

では、日本がなぜ、鎖国を受け入れたのか?

鎖国により日本の近代化が遅れる結果となり、西欧諸国の植民地化の脅威におびえることになった。

そして黒船が日本に来航したことで、西洋の技術力の高さを目の当たりにすることになった。

蒸気機関と帆船を組み合わせた蒸気船は、当時の最新技術であり、航行の速度と安定性を飛躍的に向上したものだった。また当時としては強力な砲門を装備しており、戦闘能力も非常に高かった。

鎖国を廃止する選択により外国との交流が盛んになり西洋の文化や技術が導入され産業の発展や社会制度の改革が行われていった。

かっての技術大国日本は、鎖国を廃止する選択により実現できたものであり、もしも鎖国を継続したままだったら、日本の近代化が進まなかっただけではなく、西欧諸国による日本の植民地化が日本の歴史に加えられていたはずだ。

憲法改正する覚悟はあるのか?

多民族国家だった日本にとって多民族だった国の提唱する多様性を受け入れるということは鎖国を改めて開国するという決断が必要なくらい大きなことだと思う。

言葉だけ「多様性」だとか語っていても浸透させられるものではない。

仮に国民が受け入れたとしても、「憲法」も「法律」も単一国家をベースにしたままでは現実問題として支障が出てくるはずだ。

例えば、日本国憲法の第24条

  • 婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により維持されなければならない。

上記のように「両性の合意のみに基づいて成立」と書かれてある。憲法を言葉通りに解釈すれば「片性」では成立しないことになる。

国民の祝日も「日本の文化」をベースとした内容で制定されているので、キリスト教の「復活祭」、イスラム教の「断食明けの祭り」、ユダヤ教の「贖罪の日」、ヒンドゥ教の「光の祭」なども国民の祝日に含める必要があるのではないだろうか?

日本が多様性を受け入れるということは、憲法改正をする覚悟があるのか?ということだと思う。

普通がなくなる

多様性を受け入れることにより、日本人にとってベースとなる憲法・法律は何らかの変化が必要になる。

それは、今後の生き方にも影響することになる。

つまり普通の幅が広がるからだ。

これまでの「普通」である「結婚して子供を育ててマイホームを持つ」という生き方も許されれば、「結婚しないで自由気ままな生活を楽しむ」という生き方も認められることになる。

これからは、集団から個に変わっていくと思うので、普通も一つではなく個の数だけ存在するようになると思う。

そうなれば、もはや普通など存在しなくなる。

人により生き方が変わってくるからだ。

それは、目的地に行くのに、敷かれたレールの上を走っていた電車を利用することも、自由に飛べる飛行機でも、または、それぞれを乗り継いで行くなど、好きな手段を選択できるようになるということ。

選択肢は一つではないので目的地にどんな風に行きたいのか?

飛行機を利用して最短時間で目的に到達するのか?

乗り換えなどはしないで、のんびりと時間をかけて到着するのか?

色んな乗り物を乗り継いで移動自体を楽しむのか?

生き方を考えるということが、これからは必要になってくると思う。