10月1日は、闘魂アントニオ猪木の日
2022年10月1日に亡くなられたこと、闘魂から、10、アントニオ 猪木からInoki→I→1で、10月1日だとか。
猪木さんの名前を聞くと、条件反射的に「元気ですかぁ?」「元気があれば何でもできる!」「1・2・3・ダー!」という言葉が頭の中で鳴り響く。
なぜ、11月に10月1日のことを書いているのかというと、アントニオ猪木さんのドキュメンタリー映画「アントニオ猪木をさがして」が2023年10月6日から全国約130館で公開されているが、約1か月経った11月7日時点で、映画を公開しているのは約10館だとか。
出演は、お笑い芸人の有田哲平さん、俳優の安田顕さんをはじめ、プロレスラーの藤波辰爾さん、藤原喜明さんが出演し、ナレーションと主題歌は福山雅治さんと悪くはなさそうだ。
アントニオ猪木さんといえば、熱狂的なファンが多いと思っていたので、もっと、たくさんの人が映画を見に来てもよいのではないだろうか?
しかし考えてみると、自分はアントニオ猪木さんの映画が公開されていることを知らなかった。
きっと、ファンの方でも、自分と同じように上映されていたことを知らなかった人は多いのではないだろうか?
つまり、アントニオ猪木さんの映画が上映されていることを知らない人が多かったのではないか?という疑問が最初に浮かんだ。
テレビなどで報道されていたのかもしれないが、少なくとも自分は見ていない。
プロレスといえば誰?
日本で、プロレスと言えば、アントニオ猪木さんの師匠であり、プロレス王こと「力道山」ではないだろうか?
しかし、正直、力道山の実力に関しては疑問しかもっていない。
昭和29年12月22日に蔵前国技館で行われた、力道山 対 木村政彦での力道山が行ったことを知ってから力道山の実力は大したことがないのだと思った。
木村は柔道王ともいえる最強の柔道家で15年間無敗で「木村の前に木村なし、木村の後に木村なし」と言われていた。
力道山と木村はプロレスでタッグを組んで、白人であるシャープ兄弟と戦う姿は、第二次世界大戦で敗北した日本人にとっては、リベンジともいえる光景だった。
しかし、木村は常に力道山の引き立て役のような存在にさせられていた。
そのことに、木村は不満を感じ「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーで、真剣勝負なら力道山に負けないと言い放った。」
その結果、タッグを組んでいた二人の試合が実現した。
この試合は、力道山側から「ひきわけ」を持ち掛けていたということだが、結果は、力道山の圧勝。
しかし、試合中、木村の蹴りが力道山の股間に入ったことをきっかけに、力道山は豹変し、これまでとは全く違う、平手打ち、蹴りでの顔面攻撃と荒っぽい試合内容に変わった。
しかし、そんなに力が入ったものには見えなかった。
最後は力道山の左掌が木村の顔面に入り、木村は前から倒れていったが、これも倒れるほどの衝撃は感じられず、木村が倒れるシーンも何とも不自然だった。
これを見て、自分は「ひきわけ」ではなく、力道山の「勝ち」でシナリオが作られていたのだと思った。
プロレスラー最強は?
プロレス王、力道山の弟子代表となると、ジャイアント馬場とアントニオ猪木。
では八百長抜きでプロレスラーで最強は誰か?といえば、迷わず「アントニオ猪木」だと答える。
ジャイアント馬場は動きがスローで強そうには見えなかったが、実際には強いと言われている。
それでも、動きを見る限り、どうしても強いとは思えないし、馬場のスローな蹴りやチョップに対して相手が気を使って倒れているようにしか見えなかった。
馬場と猪木
馬場と猪木の二人は同日入門発表、同日デビューなので同期になる。
しかし、年齢的には5歳、ジャイアント馬場の方が上になる。
そのためなのか、力道山は二人に対する育て方が全く違った。
馬場には外国人レスラーと対戦するチャンスが与えられ、デビューからわずか9カ月でアメリカ遠征に出発。
ババ・ザ・ジャイアントのリングネームで全米各地でトップヒールとして活躍。
この3年間に及ぶ遠征で、馬場は本場アメリカンプロレスを学び、全米のトップレスラーと互角に闘える実力を身につけた。
これに対して、猪木は、力道山家の住み込みの付き人として雑用をこなし、日々、鉄拳制裁を受けながらの3年半の厳しい修行生活を送った。
こうして、力道山の「大衆のヒーロー」としての振る舞いと「プロレスはケンカである」という闘魂を自然と学んでいった。
そして力道山流のケンカプロレスと、道場のコーチだったカール・ゴッチから学んだ英国式の本格的なレスリングを融合させた独自のスタイルを作り上げた。
夢のジャイアント馬場 対 アントニオ猪木戦
成長した二人はタッグを組んでBI砲として活躍することになる。
そうすると、馬場と猪木、どっちが強いんだ?と誰もが思う。
二人が闘っている映像や写真は見たことがない。
しかし、同門だったので、実は若手時代に何度も二人は試合をしていた。
記念すべき初対戦は、1961年5月25日に富山市体育館で行われた。
前座の15分1本勝負で行われたシングルマッチは、ジャイアント馬場が10分0秒、羽交い絞め(現在のフルネルソン)でアントニオ猪木からギブアップを奪っている。(試合の映像も写真も存在しない)
その後、15試合が行われたが、全てジャイアント馬場が勝利している。
本当に、これだけの実力差があったのだろうか?
ジャイアント馬場ともアントニオ猪木とも戦ったことがあるスタンハンセンは、以下のように話している。
アントニオ猪木はプロレスを熟知していて動きも早い、しかしジャイアント馬場の腱の力が凄く強かった。
その上で、二人が闘えば引き分けだろうと言っている。
幹部の愚行
力道山が亡くなったあと、日本プロレスのレスラーよりレスラーを引退した幹部の方の給料が高かったり、幹部による会社の金の浪費が目立つようになり、現役レスラーの不満は高まっていった。
このままではダメになるとジャイアント馬場、アントニオ猪木を含めた選手会が改革をしようと動いた。
猪木は改革計画の参謀としてプロモーターで会計士でもあった木村昭政を参謀役とし単独で改革プランを練り上げ始めた。
木村氏は日本プロレスの帳簿などをチェックしたが、素人目にもいんちきな帳簿は幹部追放の強力な材料になった。
猪木は、これを幹部に突き付けて幹部の追放を提案するが、慎重派の馬場は難色を示し、まずは話し合いだと役員会議を提案した。
結局、馬場の提案を受けて役員会議を招集し幹部連中の使い込みはストップすることができた。
馬場は、しばらくは、幹部は現状のままで、しかし猪木派は猪木を社長、木村氏を副社長として今の幹部を追放するという乗っ取りと受け取れるようなことを計画していた。
これにより猪木と馬場は分裂し、結局、猪木は選手会から除名されて新日本プロレスを追放されることになった。
猪木は新団体である、新日本プロレスを立ち上げた。
馬場は、その後、日本テレビとNET(現:テレビ朝日)とのプロレス中継に関する、放映権の問題に巻き込まれる。
NETのプロレス中継に日本テレビ専属の馬場を出演させろというもの。
日本テレビは、馬場をNETに出演させれば、プロレスの中継を打ち切ると強い姿勢を見せたが、日本プロレスの幹部連中は、そんなことはできないと馬場のNETへの出演を認めてしまった。
これにより、結局、日本テレビは日本プロレスの中継を中止することになった。
そして、馬場自身もNETへの出演を反対していたこともあり、これがキッカケで、日本プロレスに辞表を提出し、全日本プロレスを立ち上げることになる。
実力と経験を兼ね備えたあと、二人は闘っていない。
今となっては、もうジャイアント馬場 対 アントニオ猪木戦が実現することはなくなったが、AI技術が更に進化すると、二人の全試合を学習させることで仮想空間での対決が実現するのではないかと思っている。
それでも、いいので二人の対決を是非、見てみたい。