竹やり訓練
1944年(昭和19年)8月4日、日本は本土決戦に備えて「国民総武装」を閣議決定した。
鬼畜米英は人間ではないので殺しても罪にならないと子供に、そんな教育をしていた時代だ。
女性も子供も含めて国民全員が「竹やり訓練」を開始した。
銃を持った敵兵に向かって、正面から竹やりを突き刺すと、丁度、へその辺りに刺さる。
そして、落下傘から機関銃を持った敵兵が降りてきたところを竹やりで突く。
突き刺すだけではダメージが少ないので、突いたら捩じってから抜く。
これが日本の大本営陸軍部が想定した竹やり作戦。
子供から見ても何を考えているんだ?という作戦だ。
空襲警報が鳴ると敵から見えないということから「竹やぶ」に逃げ込んだ。
そして避難している間に竹やぶで竹を切って、竹やりを作る。
子どもの場合は150㎝、大人用は170~200㎝と規格化されていた。
竹やりには50㎝間隔で傷をつけて「ものさし」の代わりにもなるように作られていた。
日清戦争
清の国は眠れる獅子と恐れられていた国。
そしてロシアは当時、世界一の陸軍国だと言われて欧州各国から恐れられていた国。
日清戦争が始まった頃、日本という国がどこにあるのかさえ世界的には知られていなかった。
このため、どこにあるのかさえ知られていないような国が眠れる獅子こと支那に勝てるはずがないと誰もが考えていた。
しかし日本が、何と支那に勝ってしまった。
そして、この勝利で、日本は朝鮮の独立を認めさせ、遼東半島、台湾、澎湖島を日本の領土とした。
しかし、世界的には小国の日本が大国の支那に勝ったことは、日本が強いという認識にはならなかった。
逆に大きな身体をした眠れる獅子と言われていた支那が弱かっただけだという認識になっていた。
三国干渉
その結果、ロシア、ドイツ、フランスは、日本を恐れるどころか、逆に日本に対して遼東半島を割譲することは、極東の平和の障害になると反発し放棄するように勧告してきた。(三国干渉)
日本は日清戦争が終わったばかりで弱っている状態であり、三国と戦うだけの余力はなかった。
このため、日本政府は、一旦、ここは堪忍し10年後に仇を取ると決めて、勧告を受け入れた。
そして、日本が血を流して手に入れた領土を返還したことで、日本国民の三国に対する怒りは魂の叫びとなった。
義和団事件
更に、欧米諸国は弱い支那は恐るるに足らずと考えて支那を分割支配しようと考えて支那に入り込んでいった。
支那では、これに対抗するために欧州人を追い払え、欧州人を見たら叩き殺せという運動が盛んになり、海外の公使館が集まる場所を囲んで支那にいる欧州人を全員殺害しようとした。
これが義和団事件になる。
欧州各国は、自国の民を救出しようと兵隊を支那に送り出した。
日本も支那には日本の公使館があったので、欧州からは仲間に入って欲しいと打診された。
日本は支那が欧州により分割支配されることを恐れて協力することにした。
すると、白人以外は人間ではないと思っていた欧州の兵隊と肩を並べて肌の色が異なる日本人が対等以上に戦った。
目の前で日本の兵隊の強さを実感した欧州の兵隊達の認識は変わった。
日本の活躍もあり、何とか支那の分割は回避することができたが、欧州は、次に外交力を使って支那の利権を狙ってきた。
イギリスは、威海衛の港を占有、ロシアは不凍港が欲しかったことから、大連に不凍港を作った。
ドイツは宣教師2人が殺されたと言いがかりをつけて、青島に租借地を作った。
フランスも広州に租借地を作り、欧州諸国がハイエナのように支那の領土を実質、分割していった。
日露戦争
ロシアは、それだけでは満足せず、日本が支那への足がかりに利用しようと狙っていた朝鮮にまで踏み出してきた。
ロシアが日本の横っ腹に位置する朝鮮にまで押さえにかかってきたのでは、日本も黙ってはいられなくなり日露戦争となった。
これが、魂の叫びから約9年後のことなる。
ロシアは、クロパトキン将軍を事前に日本の視察に行かせていたが、ロシアに楯突く力も、その気もないという報告がされていたので、それほど、軍事兵器については大きな差があったのだろう。
ところが、日本から仕掛けて行ったのだから世界中が驚いた。
あのロシアに楯突けば、今度こそ日本に勝ち目はない。
世界中がそう考えていた。
しかし、戦闘を交える都度、日本がロシアに勝利していった。
難攻不落と言われていた、旅順も落とした。
そして、昔の長春にて睨み合いが続いた。
実は日本には既にこれ以上、進行する力が残っていなかった。
連戦連勝の日本だったので、本来なら睨み合いなどしないで攻めていた。
物は8分目で止めておく必要があるとの判断で怨みを飲んでロシアと和解した。
日本が一等国の扱い
これまで、日本を対等な国だと認めず、治外法権は何とか止めてくれていた程度にしか扱われていなかった。
それが、日露戦争に勝利したことで、一般欧州の国々と対等だということを通り越して一等国の扱いに変わった。
武器では圧倒的な差があった、支那とロシアに日本は勝利したのは、正に竹槍で銃に勝ったと言えるのではないだろうか?
日本は、なぜ強かったのか?
武器、体格で共に劣る日本がなぜ、日清戦争、日露戦争で勝てたのだろうか?
日本人は一人一人だと弱い。
しかし集まると強くなると言われていた。
当時、日本には明治天皇という国民の支えとなるような絶対的信頼を持った方が日本を導いていた。
正直、同じ人間を過剰に美化して敬うのはどうかと思う。
しかし、国に神様のような存在が実在するというのは、精神的に大きな支えになると思う。
人は精神的に弱い生き物なので、1人で立っていると心細くなる。
このため、何か寄りかかれるものがあると、つい寄りかかってしまう。
そして、日本では子供の頃に「孝」の精神を教えられる。
親孝行する人間に悪い人はいない。
孝というのは、親を安心させ、心配させないようにすることであり、子は親に心配させるようなことは行わないように成長する。
そして身体を丈夫にして健康でいることが親に心配をかけないことにもなる。
孝が実行できるようになり、親から日本という国の仕組みを教わることで、日本という国は天皇様への忠誠心、つまり「忠」の精神によって国民全員が頑張り築き上げられたものになる。
だから、天皇様には感謝し、お国のために働かないといけないと教えられる。
子供の頃から当たり前のように天皇様に感謝しないといけないと教えられれば、成長と共に、自分はどうなっても天皇だけは守らないといけないという気持ちが自然と芽生えてくる。
子供の頃から、忠と孝の精神を実行できるように育てられた国民が集団となり、日清戦争、日露戦争で戦うのだから、いくら身体が日本人より大きくて力が強くても、多少、武器が優れたものを持っていても、自分のことを第一に考えるような人達とは志が違うので、生死を分けるような場面になれば、忠孝の精神で判断できる日本人に勝てるはずがないのだ。
弱くなった日本
日本人の強さは竹槍ではなく、忠孝という精神的なものであり、竹が無くても、身体一つでも親や天皇を守るために敵に立ち向かっていくだろう。
日本人は竹やりどころか、何も持たなくても銃に勝てると言える。
孝の精神を実行するためには家族主義でなければならない。
しかし、今は個人主義に変わりつつある。
親は親、子は子。と割り切って考える人が増えている。
以前は、子供が悪いことをすれば、親は自分のことのように恥ずかしく思い、子は親が悪いことをすれば、世間に顔向けができないと思うのが当たり前だった。
家族主義が崩れれば日本も崩れることになる。
今の日本が、もし戦争になれば、武器で劣り、身体面でも劣る日本に勝ち目があるとすれば、忠孝精神しかない。
しかし、天皇を軽視し、親より自分という精神では武器である刀の刃がボロボロの状態だといえる。
今時、親孝行や忠誠などと言って、お国のためにと自分の命を犠牲にしていた明治時代の日本人をバカにするかもしれない。
しかし、本当にそうだろうか?
命を犠牲にしてでも守ろうとするものがあった人生というのは、むしろ幸せだったと言えるのではないだろうか?