協調性を重視するのが日本の文化
これまで日本では「協調性」が重んじられてきた。
人と違ったことをしてはいけない。
一致団結して目標を達成しよう。
これが日本で美徳とされてきたこと。
このため、子供の頃から「個人」ではなく「集団」で活動することが重んじられてきた。
子供の頃は、大縄跳び、大人になれば、QCサークル活動。
どれも、他の人と力を合わせて一つのことを成し遂げようということなので、自分の気持ちよりも、全体としてどうなんだ?ということを優先しなければいけなかった。
それは日本の古き良き文化であり、その文化によって、小国の日本が戦争で大国だった今の中国やロシアに勝てたり、第二次世界大戦での敗戦から短期間で世界トップレベルの経済大国にまでなれたのだと思う。
しかし、天才・偉人と呼ばれる人たちを見ると、「日本の美徳」とはかけ離れた人と異なる、個性的な人が多い。
それは、子供の頃では優等生という枠からは外れていて、大人だとエリートという枠からは外れている人ではないだろうか?
77歳まで東京大学で助教授だった牧野富太郎
日本の千数百種類の植物に学名をつけた方であり、日本で初めて近代的な植物図鑑を刊行した牧野富太郎氏は、好きなことしかしないから、万年助手で安月給。
しかし、植物研究のためなら借金をしてもお金を使ってしまう。
ズボラな性格で学校に出るのは2か月に1回で、学生や教授に迷惑をかけたのは1度や2度ではない。
そんなことから大学(東大)からの追い出そうとする動きが数名の教授により画策されているといった新聞記事まで書かれていた。
この部分だけを取り上げると、日本の美徳とは、かけ離れたことをしていたからだと言われても仕方ない。
それでも、77歳まで万年助教授と言われながらも大学に残ることができたのは、なぜだろうか?
まず、先の新聞記事は誤報だった。
日本の良き文化も、人と違う=悪だと考えてしまうと、このような誤報まで出してしまうことになる。
記事の内容とは異なり、牧野先生の講義は、学生からは楽しいという評判だった。
決まった時間には来ないで、型式にとらわれない自由な植物に関する座談室のような場だったという。
よく言えば「自由」悪く言えば「ズボラ」言葉が変われば同じことでも随分と印象は変わってしまう。
ご本人が、植物集説の下巻で以下のように話している。
私のズボラは質の悪いズボラではない、一方でズボラと見える時は必ず一方で精励して持ち前の凝り性を発揮して居る時である。丁度、天秤の様なもので、一方の下がった時は必ず一方が上がって居る。其の真相を洞見する明がなく、無闇に私をズボラな人間とけなしつけるのは、其の一斑を見て全貌を知らざる皮相の観察である。
普段の牧野先生を見ていた学生たちは上記のことが理解できていたのだと思う。
そして、それは、小さな子供が「無邪気」に好き勝手なことをしている姿が可愛いと思えるのと同じものが牧野先生からも感じられたからだと思う。
許される人と許されない人
世の中には、同じことをしても、許される人と、許されない人がいる。
上司が部下に対して叱責した時に、上司が許される人だったら、叱責された部下も周囲で見ていた人達も、あの人なら仕方ないよなと笑って許されてしまうだろうが、許されない人の場合だと、全く同じことを言ってたとしても、パワハラだ!言い過ぎだと批判されるだろう。
牧野さんは、講義に遅れてきたり、いきなり講義を休んだりしても、あの人なら仕方ないよなと笑って済まされるタイプの方だったのではないだろうか?
単に、植物のことに詳しい人であれば、万年助教授で東京大学に77歳まで残れなかったと思う。
余人をもって代え難し存在だったから長きに渡り必要とされたのだと思うし、更に重要なのは、ご本人が、ずっと植物のことが大好きだったということだと思う。
一つのことに夢中になっている方だと邪気がないので、悪気を感じない。
ところが、少しでも邪気が感じられてしまうと反発したくなってしまうだろう。
必要とされる人になるには、知識や経験だけではダメで、「邪気」を感じさせないことも必要だと思う。
邪気を無くすためには「好きなことに打ち込む」これに尽きるのではないだろうか?