鬼が笑う?
年末が近づいてくると、来年のことをつい話したくなる。
しかし、そんな時、ふと頭に浮かんでくるのが、「来年のことを言うと鬼が笑う」という言葉。
この言葉の意味を何となく「来年のことを話すのは良くない」といったニュアンスで捉えていたが、改めてよく吟味してみると、「鬼が笑う」というのは何を示しているのだろうか?
来年のことを話すのは、なぜ良くないのか?
単純に考えると、普段怖い顔をした鬼さえ笑わせてしまうのだから凄いことなのではないか?と思ったりもする。
意味を調べてみると以下のように書かれてあった。
- 来年のことは、どうなるかわからないから、めったなことで口にするものではないというたとえ。
歳を取ると過去を話したがり、若い時は将来を話したがる
人間というのは歳を取れば「過去」のこと、若い時には「未来」のことを話したがる。
昔は、良かったなぁ~、将来、お金持ちになって高級車に乗るんだといった具合だ。
歳を重ねると将来のことを考えれば自然と「死」のことを考えないといけなくなる。
誰でも死のことなんて考えたくない。
また自分の未来も先が見えてしまうので、必然的に、未来のことより過去の楽しかった頃のことを考えたくなる。
逆に若い時は、過去のことを考えても今と変わりがないし、やりたいことがたくさんあるので、どうしても未来のことを語りたくなる。(もちろん、例外もあります)
来年は未来のことであり、未来のことなんて誰にもわからない。
しかし、わからないことを、あれこれ話しても仕方ないのだろうか?
この点がどうしても納得できなかった。
熊本の昔話
熊本の昔話では、寺に弟子入りした鬼が新しいお堂を建てる時に頑張ってくれたが、その時に手伝ってくれた方達に振舞われた「だご汁」を鬼が凄い勢いで食べてしまうので他の坊さん達が、おかわりできなくなって困ってしまった。
そこで知恵を出し合って考えたのが、竹を切ってだご汁に浮かべれば、鬼は竹を除けながら食べないといけなくなるので、食べるのが遅くなるはずと考えた。
ところが鬼は竹にはお構いなく、竹を除けずに、かみ砕いて食べてしまった。
中には凄く硬い竹が入っていて、それを噛んだ鬼の葉が折れてしまいだご汁が食べられなくなったと鬼は大泣きした。
和尚さんが「来年」になるとまた歯が生えてくる」いうと、鬼は喜んで「笑った」ことから「来年のことを言うと鬼が笑う」と言われるようになったとか。
しかし、この話で、来年のことを言って鬼が笑ったことには何の問題もないはず。
めったなことで口にすることには該当しないように思う。
リレーと同じ
ということで、自分なりに考えてみた。
年末とはいえ、まだ今年は終わっていない。
終わっていない今年のことを放ったらかしにして、来年は良い年になれば良いなぁなどと言っても今年と結果は同じではないだろうか?
まず、終わっていない今年を良い年にしようとする必要があるのではないか?
今年と来年は別物ではなく、今年の延長が来年であり、来年になったからと今年のことがリセットされるわけではない。
今年が良い年なら来年のスタートも良い年から始まるし、悪い年なら悪い年から始まる。
リレー競技のようなものではないだろうか?
第1走者が良いスタートを切って1番で帰ってくれば第2走者も1番でスタートが切れる。
第2走者は第1走者の結果を引き継ぐことになる。
良いスタートを切って1番で帰ってきてもバトンを渡すところで転んだりバトンを渡すのをミスして落としたりすれば台無しになる。
バトンを渡す瞬間が、大晦日から元旦ということではないだろうか?
そう考えれば、残り少ない今年であっても終わったと考えずに、しっかり来年に繋げるために油断することなく良い年で終わるように努力しないといけない。
バトンを来年という次の走者に渡すのが今年の役割。
仮に悪い年だったとしても、来年が少しでも良いところからスタートできるように一生懸命に努力しないといけない。
来年が良い年になれば良いなと願っているだけで何もしない人の姿を見て、来年がよくなると誰が思うだろうか?
火を見るより明らかとなる。
普段、笑わない鬼でも、努力もしないで願っているだけの姿は滑稽に見えて思わず笑ってしまう。
このことを「来年のことを言うと鬼が笑う」という言葉で伝えたかったのではないだろうか?