お茶汲み
自分は、「お茶汲み」という言葉が嫌いだ。
「お茶汲み」という言葉から本来の意味以外の後ろ向きの気持ちが伝わってくる。
- 雑用
- 誰でもできる
- 自分でやれ
お茶汲みという言葉の意味は、「お茶をいれること」になるが、これが職場で使われる時には、「どうでも良い仕事」のような意味に変わってしまっている。
これが同じお茶をいれる「茶道」に変わると、全く別の高貴な感じのことになる。
同じ、お茶をいれることが、なぜ、こんなにも違ってしまうのだろうか?
お茶出し
もう一つ「お茶出し」という言葉も、お茶汲みと同じで、職場で使われると、本来の意味以外の心の声が聞こえてくる。
- やってあげている
- 仕方ない
- めんどくさい
企業によってはコロナ禍で、お茶汲みやお茶出しを感染防止の観点から取りやめたところも増えていたので、お茶から解放された人達にとっては好都合だったのかもしれない。
茶道
お茶に関しては日本には宗教とも言える茶道がある。
茶道の本質的に不完全なものを崇拝する。
それは、私たちが、完成されないものと自覚しているこの人生において、それでも実現可能な何かを成し遂げようと、儚い(はかない)試みを続ける存在だから。
物事には完全なことはないと受け入れていても、完全に近づくように試みるのが茶道だと言う。
完全より不完全
不完全なものを崇拝するという部分が、わかりにくいと思うので具体例で補足したい。
以下はどちらも、月夜のイラストになる。
「月夜」を表現しているイラストとしてどちらが適切だろうか?
どちらも、月夜を表現しているので、どちらも適切だと思うかもしれない。
では左右それぞれのイラストにタイトルをつけるとすればどうだろうか?
左側は「月夜」で問題はないが、右側はどうだろうか?
右側の絵には「すすき」が描かれている。
「すすき」があることで「秋」という言葉を連想してしまう。
そうすると、「月夜」ではなく「秋の夜」というタイトルにしてしまう人がいるかもしれない。
そうすると、左側が「月夜」を表現しているイラストとしては、より完璧になる。
つまり、左側は「完全」で、右側は「不完全」ということになる。
では、どちらのイラストが美しいか?と問われた場合は、どうだろうか?
違いは「すすき」だけ。
自分は、左側より右側の方が、「すすき」によって秋の風情を感じさせてくれるので、右側の方が好きだと答えたくなる。
これが「不完全を崇拝する」ということになる。
「月夜」という場合には、「すすき」は邪魔な存在になるが、「好き・嫌い」という場合には、「すすき」が秋を感じさせてくれることで虫の音色や、秋の涼しい風といった状況までを感じさせてくれる。
茶人として有名な、千利休は、客人を招く時に、半日前に庭の掃除を完璧に行なう。
そして、その後は、落ち葉が庭に落ちてもそのままにする。
庭に落ち葉が落ちている方が風情を感じるのではないだろうか?
おもてなしの心
茶道は「おもてなしの心」が大切で相手のことを思いやる気持ちが重要だと思う。
お茶汲みとかお茶出しといった投げやりの気持ちではなく、もてなす気持ちを込めて行った方が、もてなす方も、もてなされる方も気持ちが良いはず。
茶葉から抽出する場合なら、お茶を淹れる、抹茶のような粉状のものから抽出する場合なら、お茶を点てる。といった言葉が茶道にはある。
わざわざ、自分の気分を悪くするようなことをイメージさせる言葉を使う必要はないと思う。
そんなことから、「お茶汲み」「お茶出し」という言葉が嫌いになった。