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文春オンラインを見ていると、「週刊文春」を買ったら、最初に開くページというタイトルが目に入った。
「週刊文春」といえば「スクープ記事」だと思うので、「スクープ記事」から開く人が多いと思う。
しかし、自分の場合、「週刊文春」のスクープ記事が読みたくて買うということはなく、今、社会ではどんなことが起きているのだろうか?ということが気になった時に気軽に読めるものということで「週刊文春」や「週刊新潮」を買う。
この2誌は表紙に記事の見出しが書かれていないので、買ってみてのお楽しみで、
「福袋」を買う時の気持ちが400円程度で味わえる。
このため、自分が表紙を開いた場合には、この「福袋」には何が入っているのかが知りたくなる。
- 「目次」を「最初に開きたい!」
それが答えだった。
なぜ「開く」と書かずに「開きたい」と書いたのか?
週刊文春を始めとして多くの本は「目次」が最初にない。
「週刊文春」の場合だと最初に写真が出てきて、暫くページをめくっていくと、忘れた頃にようやく「目次」が出てくる。
今頃、出てきても遅いと思いながら、「目次」は飛ばしてしまう。
「目次」というのは、その本にはどんな内容が書かれているのかを示したものではないのだろうか?
初めて読む場合だと、どんな内容が書かれてあるのか?二回目以降は読みたい場所をもう一度、開く場合に利用するものだと思う。
「はじめに」と「感謝」
そんな大切な「目次」を最初に持ってこないで、「はじめに」という文から始まったり、それが終わると次は推薦文みたいな文から始まる場合もある。
著者が海外の場合だと最初にの前に「感謝」みたいな内容が散々書かれている。
1人やならまだしも、2人以上の場合もあるので、さすがにうんざりする。
感謝の気持ちなら本人に直接伝えて欲しいと思うし、百歩譲って、それでも書きたいというのであれば、最初ではなく、最後に移動して欲しいものだ。
海外本の場合は散々、関係のないことを読まされるので、目次に到達する前に疲れてしまって、こんな本は読む価値がないと読むのを止めたことさえある。(笑)
これが電子書籍(Kindle)の場合だと、目次を探さなくても、画面左上の「≡」をタップすると目次が表示されるので読みたい部分の見出しをタップすると飛んで行ってくれる。
ディズニーランドの「ガイドツアー」に参加するといくつかのアトラクションに行列待ちをすることなく、ショートカット用の通路から入れるが、その時の長い行列を見ながら歩いて行くときの気持ちになれる。
「週刊文春」を買ったら、最初に開くページ
前置きが長くなってしまったが、記事での答えは、小林信彦さんの連載コラム「本音を申せば」のページを開くというものだった。
1998年に連載がスタートして、2021年7月8日号で終了したということ。
そして、今年に入って、連載した内容をまとめた「日本橋に生まれて」という本が出版された。
「映画は子供のころから見ていた。東京は日本橋区の生れで、和菓子屋の九代目の長男で、親や番頭に可愛がられながら育ったから、そういうことになる。」
自らをそう振り返る小林信彦さんが、折にふれて観なおす名画の話。八十何年かの人生をいろどる幸福な出会い。名著に加筆を施した『決定版 日本の喜劇人』のこと・・・。「週刊文春」で23年連載された名物コラム『本音を申せば』シリーズが、本書をもって完結します。
辛口ではあるが、何とも味のある文章で、ついつい読み進めてしまい、気が付いた読み終わっている。
しかし、週刊文春の名物コラムだったというのは、この記事を読んで初めて知った。
また、著者についても、どんな人なのか?ということは知ろうとしなかったので、それも、この記事を読んで知った。
誰が書いたかより、どんな文か?
自分は「誰が書いたか?」ということは、あまり気にしない。
「どんな文」なのか?ということが一番であり、世間的には評価の高い作家さんであっても、自分が読んでみて、すっと入ってこないようなものは、まだ自分が読むタイミングではないと考える。
本を読むタイミング
本というのは、読むタイミングがあるというのは、色んな本を読んでいるうちに実感するようになった。
最初に読んだ時には、1ページも読めなかったのが、時間が経って改めて読むと、こんな面白い本をなぜ、あの時は読めなかったのだろう?と思うことが今でもある。
仏教の本なんて、宗教だと思っていた頃は、ページをめくっていっても読みたいと思える部分さえ見つからなかった。
しかし、祖母が亡くなって僧侶がお経を終えたあとの法話を聞いて「縁起」「諸行無常」という言葉に興味を持った。
仏教は、ただ理想論を語ったものではなく「科学」に基づいた内容なのだという。
そう聞くと、本当なのだろうか?という気になり、CD付きの「般若心経」の本を書店で見つけて読んでみると260文字のお経の中に込めらた教えに感動し、目が一気に覚めた感じがした。
僧侶の法話を聞くという、ちょっとしたことがキッカケで、それまで興味も持てず、読めなかった本に興味が出て読めるようになるということを初めて経験した。
きっと、僧侶の法話を聞く前の自分であれば、小林信彦さんの文章にも興味を持つことがなかったかもしれない。