金沢で合同法要
2023年3月21日の朝刊の一面の見出しは「東西本願寺が合同法要」
2023年9月2日に、金沢城公園で「いのちのつどい」と題した両本願寺合同法要が営まれる
両本願寺の総長が参列する合同法要は、全国的にも珍しいことで金沢市以外ではあり得ないらしい。
これは、東西本願寺の政庁である金沢御堂(かなざわみどう)(尾山御坊)が、今の金沢城公園の場所にあったため。
また、今年は浄土真宗の開祖である親鸞聖人が御誕生して850年ということ。
浄土真宗とは?
最初に浄土真宗とは、どんな教えなのかをまとめておきたい。
浄土真宗というのは、一言でいえば、「阿弥陀様」と出会うためのもの。
「他力本願」「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」「南無阿弥陀仏を唱えれば極楽浄土に行ける」という言葉が有名。
その中でも「他力本願」という考え方が浄土真宗の核になるものだと思う。
他力本願
他力本願という言葉が核だと言われると、他人の力をあてにするのかよ!と思われるかもしれない。
本願力とは阿弥陀様の「慈悲のはたらき」のこと。
阿弥陀様の「生きとし生けるものを救わずにはおれないという強い願いのはたらき」これが「他力本願」ということになる。
善人なおもて往生・・・
善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや
これは、善人でさえ幸せ(往生)になれるのだから悪人は、なおさら幸せになれるという意味になる。
「悪人でさせ幸せになれるのだから、善人はなおさら幸せになれる」の間違いではないのか?思ったかもしれない。
しかし、間違っているわけではなく、これは、浄土真宗における「善」と「悪」、「他力本願」という言葉が、しっかりと理解できれば、納得できるかと思う。
除夜の鐘は人間の108の煩悩を除くことを願って突いている。
煩悩とは、苦しみや悩みの要因になる。
人は6つの根(眼・耳・鼻・舌・身・意)で構成されている。
そして、6つの根には3つの感情(好・悪・平)がある。
更に、それぞれ、2つの感情、染(汚れた感情)・浄(清い感情)がある。
そして全てのものには、3つの時間の流れである、過去・現在・未来がある。
これを組み合わせると、6×3×2×3=108となる。
そう考えると、人は煩悩の塊だと言える。
浄土真宗では人は煩悩の塊であり、悪人となる。
そして、善人とは、自分は本来悪人なのに善だと、うぬ惚れている悪人のことになる。
つまり、悪人より更に酷い状態が善人ということになる。
そして、阿弥陀様の慈悲は全ての人を救いたいという強い願いのはたらき(他力本願)なので、悪人より酷い状態の善人でさえ、幸せにしてくれる。
善人でさえ幸せにしてくれるのだから、悪人も当然、幸せにしてくれるということになる。
南無阿弥陀仏を唱えれば・・・
「南無阿弥陀仏を唱えれば極楽浄土に行ける」
南無というのは、敬意、尊敬、崇敬をあらわすサンスクリット語の音を漢字にしたもの。
これを浄土真宗では、帰依するという意味に解釈している。
帰依するとは、優れた力を持った者に、頼り、すがることになる。
そうすると、南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀仏様を信じて頼り、すがりますという意味になる。
自分は悪人だと自覚し、阿弥陀様の本願力を信じれば極楽浄土に行けるという意味になる。
もっと、簡単にするなら、阿弥陀様にすべてをお任せする。
それが、「南無阿弥陀仏」という言葉の真の意味になる。
浄土真宗は「南無阿弥陀仏」と唱えることで極楽浄土に行けるという実にシンプルな考え方なので、敷居が低く大衆が受け入れやすいと思う。
そんなことから浄土真宗は多くの人から信仰されたのだろう。
なぜ、西と東に別れたのか?
現在、浄土真宗には「本願寺派」と「真宗大谷派」、二つの派がある。
※大谷というのは、宗祖である親鸞の遺骨が大谷(京都市東山山麓)にあったことから
本願寺は、京都の西本願寺、真宗大谷派は京都の東本願寺が総本山になる。
どちらも、もちろん同じ浄土真宗で、教義もお経も全く同じ。
織田信長の時代になる。
この時代、宗教同士の対立が激化して、戦争にまで発展していた。
本願寺も、二度の戦いで負けてしまい、軍事強化の必要性を感じ、石山(大阪)に要塞ともいえる巨大な寺を築いた。
織田信長は、宗教の教えは否定していなかったが、宗教が軍事力をもち、政治に介入することには、反対だった
そんなことから、織田と本願寺が戦うことになった。
この戦いは、石山10年戦争と言われるほど、長く続いた。
しかし、本願寺は劣勢に陥り、当時の天皇から石山からの撤退を迫られることになった。
その後、明智光秀の謀反「本能寺の変」により、信長は炎に包まれたまま自刃。
信長に変わり天下を取ったのが豊臣秀吉。
秀吉は本願寺に、堀川七条の地を与えた。
ここに立てられたのが今の西本願寺になる。
その後、間もなくして顕如が他界した。
すると秀吉は、勘当された長男の教如を跡継ぎに指名したのだ。
ところが、今度は母である如春尼が准如が跡継ぎだと言い出し、お家騒動となった。
結局、秀吉の裁定により、宗主は准如となり、教如は本願寺から再度、追い出されてしまう。
秀吉も他界した頃、教如は徳川家康に取り入り、七条烏丸の地を与えられた。
ここに立てられたのが東本願寺になる。
こうして、本願寺は西と東に分裂してしまった。
このような、いきさつを知れば、西本願寺と東本願寺が合同法要を行うということが、どんなに凄いことなのか?ということは実感できるのではないだろうか?