2019年12月4日に、アフガニスタン東部のナンガルハル州ジャララバードで、福岡市のNGO「ペシャワール会」の現地代表で、医師の中村哲さん(73歳)が車での移動中に何者かに銃撃され死亡との報道がありました。
- ペシャワール会というのは、1983年9月に中村哲医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で結成された国際NGO(NPO)団体です。
- PMS(Peace Medical Services)は、平和医療団・日本 総院長の中村哲医師率いる現地事業体です。
【引用元】
日本の外務省は、中村さんが11月に一時帰国した時に危険が迫っているとして注意を呼び掛けていたそうです。地元当局も約1年前から危険情報をつかんでおり、事件直前に中村さんに襲撃計画の情報を伝えていました。このため、中村さんも警戒していましたが、今回の襲撃に至ったようです。
中村さんが行ってきたことは、感謝されることはあっても、銃撃される理由なんてありません。
なぜ中村さんは銃撃されたのでしょうか?
僕は、海外への自衛隊派遣が全ての始まりだと思います。
アメリカで、2001年9月11日に同時多発テロ事件が起き、沢山の命が奪われ、恐怖しました。
アメリカは、「正義の戦争」という名のもとに犯行を行ったテロリストがいるとされたアフガニスタンへの空爆を開始しました。日本も「テロ対策特別措置法」を急遽成立させ自衛隊をインド洋に向けて派遣しました。
テロリストによりアメリカの多くの人の命が奪われたことは憎むべきことです。しかし、アメリカの空爆によりアフガニスタンに住むテロとは関係のない人の命も奪われたのです。米国で亡くなった以上の人が怯え、そして命を奪われたのです。それは空爆によるものだけではありません。餓死状態だった人達が空爆により援助を受けられなくなり、亡くなった方もいます。
日本の自衛隊派遣は後方支援であったかもしれませんが、空爆に協力したことに変わりはありません。一部のテロリストを捕まえるためにテロと関係のない多くの命を奪うことが、「正義の戦争」であるはずがありません。
中村さんは、常々、「日本人であることは一つの安全保障である」と言っていたそうです。
それは、日本国憲法第九条で「戦争を永久に放棄する」としているからです。それが、自衛隊をインド洋に派遣したのです。日本は戦後、軍事に依存しないで復興した国ということで好意をもってくれた国の方には衝撃的な事だったと思います。
その結果、中村さんが築いてきたアフガニスタンの人達との信頼関係も崩れます。
罪のない人々を空爆した国に協力したのですから当然です。
イラン沖での日本船舶への攻撃から守るために自衛隊を派遣する。これも同じことです。罪のないアフガニスタンの人々の命を奪った米国に協力する日本に悪い感情をもつ人がいても不思議ではありません。そして、そんな国の人間がアフガニスタンで活動していることを面白く思わない人がいても不思議ではありません。
自衛隊の海外派遣により、安全保障がなくなったのですから、アフガニスタンで活動する中村さんにとっては、迷惑なことだったと思います。
実際、自衛隊が派遣された後は、日本の国旗があるとテロの標的になるということで取り外したそうです。
その後も、集団的自衛権の行使容認、平和安全法制を成立させたりと自衛隊の海外派遣を拡大しようとする政府を中村さんは快くは思っていなかったようです。
中村さんは、安倍首相が掲げた「積極的平和主義」を「言葉だけで、平和の反対だと思う」と批判しました。自衛隊を海外派遣する事は戦争の支援を行うことです。それが平和につながるとは思えません。中村さんが考える平和への道は、「日常の中で、目の前の一人を救うことの積み重ね」だということです。
中村さんが批判した通り、積極的平和主義は平和の反対でしかなかったということが、皮肉にも中村さんの死により証明されてしまったように感じます。
日本人であることが安全保障どころか、テロの標的にされてしまい、中村さんの命が奪われてしまったと僕は思っています。
そして改めて憲法九条の重要さを認識させられました。
マラリアが流行した時に元ゲリラ兵が自分の弟を優先して診察しろと中村さんに言い寄ってきたときのことです。病院スタッフは順番を守ってくれと断りました。それを根に持ったゲリラ兵が仲間を集めて銃撃してきました。その時に銃を持って仲間を呼ぼうとしたスタッフに、中村さんが言いました。
- 私たちは人を殺しにきたんじゃない。人の命を守るためにここにいるんだ。
だから、皆殺しにされても銃は持たない。仲間も呼ばない
この言葉が僕に響きました。
それまで、アメリカに助けてもらわないと、日本は自分の国を守れない。だから米国には協力するのは仕方ない、だから自衛隊派遣は仕方ないものだと正直、思っていました。
しかし中村さんの言葉で目が覚めました。
「皆殺しにされても銃はもたない」これが日本のあるべき姿なんです。
だから憲法九条は死守しなければ、いけないのです。北朝鮮をはじめとする他国の脅威や米国の要求に怯えて日本の大切な「信念」を失ってはいけないのです。
世界から軍事兵器は無くすべきなんです。
日本は世界で唯一の被爆国として世界に平和を訴えていくべきなのです。
平和を訴えていくことに米軍は必要ありません。
ここまで、中村さんがアフガニスタンに行った後の話をしてきたのですが、水もお金も食べ物もないという場所に中村さんはなぜ、行こうと思ったのでしょうか?
最初は、1978年6月に、福岡の山岳会からヒンドゥークッシュ山脈の最高峰ティリチ・ミールに登る登山隊の専属医師として同行して欲しいという依頼からでした。
中村さんは当時、32歳でした。41年も前のことになります。
ヒンドゥークッシュ山脈は、アフガニスタンとパキスタンの間にあります。中村さんはその時が、初めての海外旅行だったそうです。
標高7,708mの海外の山への登山隊の同行が初めての海外旅行というのも過酷だったと思いますが、中村さんは山と蝶が何よりも好きだったので喜んでOKしたとか。
現地では海外から医者が同行する登山隊が来るということで、貧しくて医者にみてもらえない人たちが中村さんの元に集まってきました。
中村さんは順番に診察を行っていきますが、あまりにも人数が多すぎて、薬が足りなくなってしまいます。このままでは、肝心の登山隊に使用する分までがなくなるということで診察を断念せざる得なくなります。
結局、中村さんは休暇の都合で登山隊が登頂するところまでは同行できず、一人山を下りることになりました。
しかし中村さんに診察してもらおうと集まってきた多くの患者さんの姿が頭に浮かんできます。このまま日本に帰って良いのだろうか?という考えが過ります。しかし、もう薬は残っていません。
更に下山の途中で暗くなってしまい明るくなるのを待つことにした時、ここでは冷えるからと一人の男性の家に招かれました。
招かれた家は決して裕福ではなく、食べ物にも困っているような状態でした。客は紙の贈り物という諺が、この国にはあるそうです。旅人を大切にするという慣習を「客人歓待」と言います。中村さんは、その方の親切を断れば自尊心を傷つけてしまうと考えてありがたく受けることにしました。
その家には、1年前から寝たきりになった病気の少女がいました。しかしお金がないため病院にも行けず、既に手遅れの状態でした。自分は医者なのに何もしてやれなかったことを情けなく感じ、1年に1回、この場所を訪れるようになりました。現地の人に触れ合っていく内に、国の風土や人々が好きになり、1984年にパキスタンのペシャワール病院に医師として正式赴任することになりました。
そしてハンセン病棟で医師活動を始めました。
その後、1991年にはアフガニスタンに診療所を開設しました。
2001年頃にアフガニスタンを大旱魃(だいかんばつ)が襲います。地球温暖化により気温が上昇したことで大洪水、旱魃などが引き起こされているのです。大旱魃により水がなくなり、泥水を飲んでしまったり衛生面が悪くなり赤痢が蔓延しました。
そこで中村さんは、「病気は後で治す、水が先だ」と決心し井戸を掘ることを始めます。苦難の連続でしたが、水と緑が戻り、トウモロコシ畑ができるようにまで戻りました。これが、「100の診療所より1本の用水路」という活動に繋がったのでしょう。
中村さんは、病気だけではなく、大旱魃で枯れ果てた大地まで治してしまったことから、ドクターサーブ(先生さま)と呼ばれるようになりました。ドクターサーブとは、英語ではドクターサーで最上級の尊称です。
そんな中村さんの活動の一端を知っていただければということから、中村哲医師を描いた漫画の前編が無料で公開されています。登録なしで読めますので、是非、一読してください。(2018年から公開されています)
紙の書籍は廃版となっているようですが、Kindle版が購入できるようです。
最後になりますが、ペシャワール会のホームページに以下のような文が掲載されていました。
誰もが押し寄せる所なら誰かが行く。
誰も行かない所でこそ、我々は必要とされる
中村さんらしい、言葉ですよね。
中村さんの意志は中村さんを間近でみていた人たちに受け継がれているはずです。これからも中村さんが行ってきたことは継続されることでしょう。
中村哲氏のご冥福をお祈りいたします。