憎たらしい顔
スーパーの駐車場と建屋を分断している道路での話。
スーパーを出ようと車を走らせていると、
横断歩道のマークのない場所から突然、歩行者が道路に歩き出してきた。
その歩行者は40代くらいの男性。
歩行者はチラッと、こちらを見たので車が来ていることは認識していたが、直ぐに前を向いてポケットに手を入れながら方で風を切るかのように悠然と歩いていった。
その時の歩行者の顔が、とにかく腹がたつ顔だった(笑)
突然、道路に出てきたことよりも、その顔に凄く腹がたった。
世の中に、ここまで憎らしい顔をする人間がいるのか?と思えた。
なぜ、そこまで憎たらしい表情や態度を取らないといけないのだろうか?
多分、そんな人に限って、自分が車を運転していて同じことをされたら、おとなしく車を止めないはずだ。
駐車場も歩行者優先
スーパーの駐車場内は車と人が事故を起こせば、横断歩道ではなくても運転手の安全確認義務違反で、運転者:9対歩行者:1の過失になってしまう。
高速道路のサービスエリアで車両が頻繁に通行する道路を歩行者が漫然と横断していて被害者にも大きな過失がある場合でも被害者の過失割合は2程度にしかならない。
つまり、スーパーの駐車場であってもサービスエリアであっても、事故を起こせば運転手側の安全確認義務違反となり、過失は運転手側にあると判断されることになる。
そんなことを知っているのか、知らないのかはわからないが、無茶苦茶、憎らしい態度をとった、歩行者は自分が優先なんだと確信していたのは間違いない。
私人逮捕
最近、私人逮捕と称するYouTuberが犯罪を起こした瞬間を見つけて取り押さえて警察に自首を勧めたり、警察に連れて行くまでの動画を撮影して公開している動画が社会問題になっている。
私人逮捕、正式には常人逮捕は警察官でない一般人が逮捕状なしで犯罪者を逮捕することで「現行犯」の場合にのみ法的に認められている行為になる。
ところが勝手に動画を撮影して公開すれば名誉毀損、罪を人為的に起こさせて逮捕したりすれば、共同正犯、教唆犯といった罪に問われることになる。
本来、善意の行為になるべきものが、動画を撮影して収入にしようということから、自身が犯罪に手を出すことになり犯罪者になってしまう。
功徳と功得
前置きが長くなってしまったが、仏教用語に「功徳」という言葉がある。
三省堂国語辞典によると、「あとでよい結果が返ってくる、よい行い」という意味になる。
よいことをしても、よい結果が返ってくる補償なんてない。
誰かに優しくしたりしても逆に騙されてしまうような時代に、そんなことを言っても賛同できない、本当にそうだというのであれば、論理的に説明してほしいと言われるだろう。
まず、「徳」というのは「見返りを求めない、よい行い」という意味で、同じ読みの漢字でも「得」の場合は、何かを手に入れるという意味なので方向性が異なる。
では、見返りを求めない、よい行いを繰り返すことでどうなるのだろうか?
善い人間関係が築ける、気持ちが前向きになるといったことが書かれている場合があるが、自分はそれは、「徳」したではなく、「得」したということだと思う。
見返りを求めないという時点で、自分にではなく自分以外の誰かに施すのが功徳になる。
見返りを求めるなら「功得」だと言える。
誰かのために何かをするというのは、誰かのためになればそれで満足。
それ以上、何を求めるというのだろうか?
それで満足できないということは、「見返りを求めている」ことになるので、功徳とは言えない、功得になる。
このため、三省堂国語辞典に書かれている功徳の意味は間違っている。
修正するなら「誰かのための、よい行い」ということになる。
駐車場で突然、道路に出てきた人は、自分に対して意図的に怒らせるような態度を取ったのだろう。
そこには、見返りを求める気持ちなんてなかったはず。
車を運転している人を怒らせても、機嫌悪くしても何のメリットもない。
ある意味、見返りを求めない行いだと言える。
功徳とはベクトルが異なるだけで、功徳の理想形だ。
人は悪行の場合だと、見返りを求めない行動ができるのに、善行の場合だと、見返りを求めてしまう。
何とも不思議なものだ。