他愛もない話について
- 気楽に書きますので、気楽に読んでください。
- あまり役に立たない内容になるかと思います。
- 特に何かを決めて書いているわけではなく、書いている内に、横道にそれたりするかもしれないので、最後はどんな話になっているのかわかりません。
- 僕の主観や記憶に依存する内容が多くなるので、間違っている内容もあると思います。(書いている内容について基本、裏付けを取ったりしません)
紙パックのアイスコーヒー
アイスコーヒーを毎日飲んでいて、土曜日に紙パック1本が終わるようになっている。
コップに氷を入れてアイスコーヒーを注ぐときの「カラカラカラカラ」という音が何とも心地よい。
コーヒーを飲むためというより、この音を聞くために毎日、飲んでいるようなものだ。
きっと世の中に氷が存在しなければ、アイスコーヒーを毎日飲みたいとは思わなかったと思う。
今日もコップに注いでいると、心地よい音が奏でられている。
暫くすると、音が途切れた。
そして、細い糸のようになったコーヒーが音もなくコップに流れ込んでいく。
そして、細い糸から雫に代わり、コーヒーがポタポタとコップに落ちていく、1分くらい待っていると、コーヒーの雫もなくなる。
細い糸から雫に変わり、最後は何も出なくなるまでの、この1分程度の時間が何とも言えない。
当たり前だが、買ったばかりのコーヒーの紙パックの中にはコーヒーが入っている。
上のほうと底のほうで、コーヒーに違いはないと思うが、上の方に位置するコーヒーたちから順番にコップへと注がれていく。
注がれるときに、紙パックに接触したコーヒーの一部は紙パックに付着してコップに注がれることなく、飲まれることもなく紙パックを洗うときに水道水とともに排水溝へ流されていく。
運よく、コップに注がれたとしても氷に付着すれば飲まれることはないし、コップに付着しても飲まれることがなくなり、コップを洗う時に水道水と共に排水溝へと流れていく。
アイスコーヒーは人間の縮図
それが、人間社会の縮図を見ているようで、何とも切なくなってしまう。
同じコーヒーとして世の中に誕生したのに、運よくコップに注がれて、しっかり飲んでもらえるコーヒーがいる反面で、飲まれることなく排水溝へ流れていくコーヒーもいる。
少しでもコーヒーとして飲んであげたいと思う気持ちから紙パックにコーヒーが少しでも残らないように最後の1滴までコップに注ぐようにしている。
厳密にいえば、氷も全て口にいれれば、氷の付着しているコーヒーも飲んであげることができる。
しかし、コップに入れて飲む限り、完全に飲み干すなんてことは現実的に無理がある。
必ず、飲まれることなく生涯を終えるコーヒーは存在するということだ。
人間社会も同じではないだろうか?
同じ人間として生まれてきても、一生何不自由なく暮らせる人がいれば、不自由ばかりで苦労ばかりの人もいる。
これが、飲んでもらえるコーヒーと、排水溝へ流されていくコーヒーの姿と重なる。
人は変えられる
しかし、人とコーヒーは同じではない。
コーヒーは流れに身を任せるしかないが、人は流れに身を任せる以外にも自分で流れを変えることができる力がある。
この点が決定的に違う。
紙パックに付着したから終わりでもなく、氷やコップに付着したから終わりではない。
付着しても自分の力で離れることが人は自分の力でできるのだ。
その力を磨いて、流れを変えられるようにならなければ、流れに身を任せる人生で終わってしまう。
そんなことを毎週土曜日、コーヒーを氷に入れたコップに注ぐ時に考えてしまう。