「正義は悪に勝つ」
これが、子供の頃からの常識だった。
しかし、論理的に考えて、それは正しいのだろうか?とふと思った。
正義の味方は、人質を取って優位に立とうとすれば、その瞬間、正義ではなくなる。
正義の味方は、正義のためには犠牲はつきものだと、とかげのしっぽ切りのようなこともできない。
そんなことをすれば世間から大バッシングを受けることになる。
つまり、正義には絶対に、やってはいけない制限が生じる。
しかし、正義の反対である、悪の場合はどうだろうか?
人質は常套手段、とかげのしっぽ切りも当然のこと。
逆に正義の味方の専売特許である人助けを悪い奴が行えば大絶賛されるかもしれない。
こうして、考えてみると、正義と悪を比較した場合、悪の方が圧倒的に有利ではないだろうか?
スポーツで例えるなら、悪には反則行為が許されているが、正義には反則行為は許されていない。
そんなルールで戦っているようなものだ。
これだけ優位な条件で悪が正義に勝てないなんてことは、よほど力の差がない限りあり得ないことではないだろうか?
悪は何でもあり、正義は制限ばかり。
どう考えても悪の方が圧倒的に有利だ。
まぁ、正義の味方が優位な条件で悪に勝っても、ストーリーとしては面白くないので、悪が優位な条件で正義の味方が知恵や友情を駆使して勝つから面白いのだろう。
結局は現実では、あり得ないことになる。
現実も悪い奴が有利?
では、現実はどうだろうか?
社会に出ると正義は一つだけではなく人の数だけ存在することを学ぶことになる。
人から評価されなければ前に進めないのがビジネスの世界。
評価されるためには、利用価値が認められないといくら能力や経験があっても認めてもらえない。
逆に能力や経験がなくても利用価値を認められれば評価されることになる。
では利用価値とはなんぞや?といえば、自分の役に立つ人間か?どうかということ。
役に立つ人間とは、自分で行うことはできなくても人にやってもらうことに長けている人。
そして、上には従順であること。
簡単に言えば、何を言っても「イエス」と答えるイエスマンが重宝される。
「イエスマン」にとっての正義は自分より上の立場にいる人。
上と書いて「カミ」こそが正義ということになる。
だからイエスマン自身には正義なんてものは存在しない。
そして、そんな人が評価されてきたのが日本の実態。
入社した時には、使えない奴だと言われていた人が「カミ」こそが正義の考え方に基づき行動したことで、あっという間に出世階段を駆け上り役員にまで到達したりする。
今では使えないと言ってた人が、評価する側から評価される側に変わってしまった。
分裂とは正義と不義に別れること
自分の正義に拘らず、自分にとってメリットのある人こそが自分にとっての正義になる。
このように考えると、ヒーローもので悪と言われている方にとっては自分達こそが正義であり、ヒーローと呼ばれている側は悪になる。
力のある方が正義だという言葉があるが現実はまさに、その通りになっている。
力のある方とない方が対立すれば、力のある方が勝ち、勝った方が正義になるのが道理。
そして、通常は個人の正義ではなく派閥単位での正義に従うことになる。
社会では圧倒的な力の差がなければ、真っ向から対立して得することなど何もないので、まずは上の正義に従うしかない。
それで、自分が派閥のトップになることができて、ようやく自分の正義を人に従わせることができるようになる。
いやいや自分には、そんな生き方は無理だという人は、どうすれば良いのか?
派閥には属さず我が正義を貫こうとすることは、先の正義が悪に勝つくらい難しいことだと思う。
余程の力の差がなければ太刀打ちできないだろう。
そうすると、既存の団体には属さず自分の正義が正しい団体を作るといったことが必要になる。
この場合、個人経営、スタートアップといった選択になると思う。
それでも学校を卒業していきなり、自分の正義だと言っても経験が足りないので、最初は、やはり人の正義に従う時期というのは必要なことだと思う。
正義の対義語は悪ではなく不義になる。
このため、現実社会では不義はあっても、悪なんてものは存在しない。
ロシアの正義は、多くの国にとっては不義になる。
ロシアを不義とする国の中でも、正義と不義に別れる。
そして、ロシア国内でも、正義と不義は存在するはずだ。
こうして二つに分けていけば必ず正義と不義に別れるはずだ。
だから正義は人の数だけ存在することになる。
そして、人と人が衝突すれば、自分は正義で相手は不義になる。
正義は自分の中に存在し、相手の中には存在しない。