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もっと早く教えてくれよって思った内容を書いていきたいと思います。

アクタン・ゼロ

無敵の戦闘機

日本のゼロ戦は、無敵の戦闘機と言われていた。

ゼロ戦のデビュー戦は衝撃的だった。

日中戦争の中、1940年9月にゼロ戦は初飛行で中国機27機を撃墜したのに対してゼロ戦の損害はゼロという結果に世界は驚いた。

ゼロ戦の何が凄かったのか?

ゼロ戦パイロットは以下のように語った。

  • スピードが速く、操縦するという意識がなくなり思った通りに動いてくれる

ゼロ戦は異常なまでの軽量化により驚異の上昇速度と旋回能力を実現した。

ゼロ戦なら補助燃料タンクを搭載することで、ハワイまで飛べるのではないか?ということから行われたのが真珠湾攻撃だと言われている。

1941年12月8日の真珠湾攻撃でもゼロ戦は敵機を圧倒した。

ゼロ戦が被弾

しかし、1942年6月にアメリカの対空砲火を受けて1機のゼロ戦が被弾した。

機体から油が漏れ出している、パイロットはエンジンの停止を防ぐために速度を落としたが、結局、小さな島の海岸線に機体はひっくり返りながら不時着することになった。

不時着したゼロ戦には2機の僚機がいた。

本来は敵地に着地した機体は銃器により機体を破壊しなければならなかった。

しかし、不時着したパイロットの安否を心配し僚機のパイロットは破壊しなかった。

ゼロ戦が不時着した島の名前はアクタン島。

全長は30Km程度の大きさ。

今は90人程度の人が暮らしている。

アメリカ国民でも知る人は少ないと言われている。

この場所は通常の飛行ルートから大きく外れていたので日米双方に気づかれることなくそのままになっていた。

米軍がゼロ戦を発見

ところが、1か月後、偶々、通りかかった米軍哨戒機がゼロ戦を発見した。

回収部隊が派遣されて、調査した結果、修理すれば飛行可能と判断された。

米軍の努力によりゼロ戦は飛べるようになった。

飛んだ時に味方がゼロ戦と間違えて攻撃しないように日の丸のマークを消して星と縞をつけた。

アメリカ軍は、この機体を「アクタン・ゼロ」と呼んだ。

ゼロ戦の速度、上昇力、防御、攻撃法を比較検討するために、米軍機と一緒に飛ばした。

ゼロ戦の弱点が見えた

その結果、ゼロ戦の致命的な弱点を発見した。

  • ゼロ戦は高速において旋回率が遅い。
  • マイナスG、重力が軽くなり身体が浮くような感じの際にエンジンが運転を続けられない。
  • 操縦室や燃料室に防弾が施されていない

米軍機はコックピットに座ると後ろ全体に装甲板があり銃弾を跳ね返すことができた。

しかし、零戦にはそれがなかったので機体が軽量だった。

小回りが効き卓越した運動能力は防御を犠牲に成り立っていたものだった。

この発見により、ゼロ戦は攻撃には優れているが守りではベストではなかったことが判った。

このことは、ゼロ戦の設計技師である曽根嘉年さんのノートにも長所と短所として客観的に記載されていたという。

そして曽根さんは高速での旋回や急降下に対し早急に改良を重ねていく必要を感じていた。

米軍は解析した結果、得られたゼロ戦の弱点を突く対策が取られた。

それは、「早く撃って右下に逃げろ」

そうすると、ゼロ戦は時速300マイル(480Km)以上では追ってこられない。

ゼロ戦と対峙したら高い高度を取り急降下しながら攻撃する。

一撃した後は追尾されないところまで急降下し、再び高い高度まで上昇し、必要があれば再び攻撃する。

この一撃離脱戦法により、ゼロ戦は次々に撃墜されていった。

万策尽きた日本

ゼロ戦が米軍の解析により攻略されたことで日本は万策が尽きた。

その結果、ゼロ戦を自爆攻撃、特攻への使用に変えた。

技術的には米軍と比べると日本軍が劣っていたのは明白だった。

技術力で劣る日本軍が米軍に勝る戦闘機を開発するには防御と耐久性を犠牲にして軽量化するしかなかった。

日本軍が米軍に勝てるはずは、なかった。

第二次世界大戦、日本は負けるべくして負けたと言えるだろう。

そして、この敗北により今の日本があることが、紛れもない現実。

もし、日本が第二次世界大戦で勝っていれば、今の日本とは全く異なる国になっていたはずだ。

軍国主義エスカレートし国民に今のような自由は与えられなかったかもしれない。

少なくとも軍隊を解体し戦争を放棄するという憲法の国にはなっていなかったはず。

しかし、仮定の話であり勝っていたら・・・

日本はどんな国になっていたのだろうか?