26年の嘘
映画『【推しの子】-The Final Act-』前夜祭舞台挨拶での齋藤飛鳥さんに質問した時の内容になる。
推しの子で「15年の嘘」という「作中劇」があって、それにちなんで最近ついた嘘を聞かれていた。
斎藤さんは以下のように答えた。
26年の嘘です。
私は今26歳なんですけど
生まれてこのかた、嘘をついて生きてきているなと思ったので、26年の嘘です
>めっちゃ哲学的じゃないですか?
いやそんな深い意味も特にないんですけど、毎日、嘘ついてるよってことです。
>そうですか最近の嘘はないですか?
もう毎日もう日常的に嘘を・・・>マジですか今日も嘘ついたんですか?
はい、常に嘘をついてますので、あえて言うほどでもないぐらい、常についてます。
>そうですか、真実の姿は誰も知らないってことですか?はい、知りません。
斎藤さんの「毎日、嘘をついているよってことです。」という言葉を聞いて、確かに、その通りだと思った。
いや、誤解のないように補足すると、斎藤さんに限ったことではなく、誰もが毎日、嘘をついているのかもしれないと思ったからだ。
「嘘はついてはいけない」子供の頃から、ピノキオや金のおの、銀のおのといった童話を通しても教わってきたことだ。
しかし、人間である限り、嘘をつかない人はいないはず。
なぜ、そんなことが言い切れるのか?というと嘘には、ついてはいけない悪い嘘と、ついても仕方ないと思える良い嘘があるからだ。
女性から着ている服が似合っているか?どうか?と聞かれて、本心から似合っていると思える時は何の問題もなく「似合っている」と答えられるが、そうでない場合はどうだろうか?
本心は「似合ってない」と思っていても、そのまま本心を相手に対して言えるだろうか?
そんなことは聞かれるまでもなく答えは決まっているという人は、迷わず「似合っているよ」と答えてあげるというだろう。
そう、これが一般的に言われている「お世辞」であり優しさからの嘘なので「良い嘘」ということになる。
しかし、本当に「良い嘘」なのだろうか?
ファッションセンス以前の問題で、誰が見ても似合っていないという場合はあるものだ。
そんな時でも「凄く似合っている」と言ってあげることは優しさなのだろうか?
裸の王様
アンデルセンの童話の「裸の王様」を思い出した。
詐欺師が王様のところにやってきて「私たちは素晴らしい服を作ることができます。それは、賢い人には見えるけど、そうでない人には見えない特別な衣装です」と言われた。
王様はその話に興味を持ってしまい「ぜひ作って欲しい」と服を作らせた。
服が完成したと見せられたが王様には何も見えない。
しかし、何も見えないと言ってしまうと、自分は賢くないことになるので「これは素晴らしい!美しい!」と嘘をついた。
王様は「見えない服」を着て町をパレードすることになった。
町の人々も当然、「見えないと」と思ったが、口々に「なんて見事な衣装だ! 」と褒め称えた。
しかし、パレードの途中で一人の子どもが「王様は裸だよ!」と言ったた。
その言葉で人々は自分たちの嘘をついていたことに気づくという話。
この話では登場する全ての人物が嘘をついている。
詐欺師は、賢い人にしか見えない服を作れると言い、王様は見えていない服を美しいと言い、町の人は何て見事な服だと言った。
必要嘘
この話では、悪い嘘に加えて、見栄をはるための嘘、お世辞という嘘と3種類の嘘が出てくる。
詐欺師の悪い嘘は論外としても、見栄を張るための嘘、お世辞という嘘についてはどうだろうか?
個人的にはどちらも許容範囲と言える嘘だと思う。
そして、人間関係を円滑にするための潤滑油のような嘘だと言える。
必要悪という言葉があるが、必要嘘と言っても良いのではないだろうか?
善意がベースになっている場合には、必要嘘で、そうでなければ、悪い嘘だと言える。
自分は、結果はどうであれば、善意がベースになっている限りは必要嘘だと思っている。
そう考えると、人間は、善意がベースになっている嘘は、毎日のようについているのではないだろうか?