元旦の明治神宮
元旦のお正月番組を視ていると、初詣の様子が出されていた。
明治神宮だったが、意外と少ない感じがした。
コロナ感染対策として、前後左右の人と間隔を空けるようにしていたということだが、そういう問題ではなく、明らかに人は少なかった。
以前は、拝殿が参拝客で全く見えなかったが今は、すき間が目立ったし行列も長くなかった。
2022年1月1日(AM8時頃)
2020年まで
自分も1回だけ明治神宮に参拝に行った記憶があるが、山手線の中はガラガラだったのが、原宿駅を降りて明治神宮へ向かう道(約800m)を歩いていくと、行列ができていて前になかなか進まず、賽銭も、賽銭箱に入れるなんてことはできず、賽銭箱前に白い布?が敷き詰められていて、そこに向かって後ろから投げるように案内がされていた。
この時、賽銭を投げるというのが罰当たりのような気がしたものだ。
そして、このようなことをさせる神社には行くべきじゃないという気持ちも生じ、結局、1回だけの参拝になった。
賽銭を投げる行為
最近は、店員さんにお金を投げつけるという行為が失礼だと問題になったりしている。
人間に対して失礼な行為を神様や仏様に対して行ってよいのだろうか?と改めて自分の考えの正しさを証明してくれたような気がする。
参拝客が少ないのが気になった
参拝客が少ないのは、昨年末、東京は徐々に感染者が増えていたことや「オミクロン株」の市中感染も増えてきたということで、参拝を控える人や遅らせる人が増えたのかもしれない。
昨年は1月4日以降でもかなりの人が参拝に来ていたということで、元旦から3日までの混雑を避けようという人も多かった。
明治神宮によれば、初詣は2月に入っても問題ないということだったので、混雑を避けて参拝というのが今は安全なのかもしれない。
お正月に参拝にいってウイルス感染したのでは、何をしているのかわからなくなる。
お賽銭
ふと、気になったのが、お賽銭だ。
みなさん、いくらを賽銭として奉納しているのだろうか?
テレビ番組でもデータ放送で、賽銭の額についてアンケート調査を行っていた。
選択肢は以下の3つだったと思う。
- 100円未満
- 100円以上~1000円未満
- 1000円以上
結果は、以下の通り。
- 100円未満:51,874
- 100円以上~1000円未満:45,788
- 1000円以上:10,122
1000円以上は6.3%だった。
これが、今の日本の所得層の縮図のように感じた。
お賽銭は、子供の頃から55円
ちなみに、自分は、子供の頃から五十円玉1個と五円玉1個で、55円と決めている。
理由は?と問われると「・・・」となるが、奉納と言われてイメージするのが「稲穂」だった。
子供が奉納=稲穂というのは、どういうことなんだ?と思われるかもしれないが、子供の頃、読んだ本で神社に稲穂を奉納している絵がなぜか記憶に残っていた。
このため、絵本と同じ、稲穂が刻印されている5円玉を選んだと記憶している。
しかし、5円玉だけだと神様に対して失礼だと思って50円を加算した。
お願いするのだから、それだけのお金を払わないといけないだろう?
その時、自分がお賽銭として払える限度額が55円だったことになる(笑)
その頃の55円というのは、今だと、5500円位の価値観に相当するように思うので、5,500円を奉納していたという感覚だった。
だったら、今は5,500円では?と言われるかもしれないが、子供の頃から、ずっと55円だったので、お賽銭=55円というのが定着してしまっているので、ご容赦願いたい(笑)
お賽銭を決める際に、子供の頃によく聞いたものだと、以下のようなものがある。
まず10円は、とうえん→遠縁→縁が遠のくという理由からダメだと言われていた。
そして、ご縁がありますようにということで5円が良いと言われた。
更には、45円で「始終ご縁」も良いと言う。
ご縁の意味がその頃はわからず、「うーん」という感じだった。
そして500円はこれ以上、「効果(硬貨)」がないからダメだと言うが、ここまでくると、単なる語呂合わせのように感じてくる。
最後に、1円玉は現実的な問題で避けた方が良いということだ。
どういうことか?というと、最近は銀行にお金を預ける際に、硬貨1000枚で1100円の手数料を徴収するといった仕組みが増えているからだ。
1円玉で1000枚だと1100円で逆に100円を支払わないといけないことになる。
そんなことから日本では、5円、45円というのが多いような気がする。
「ご縁」は仏教用語
しかし、ご縁というのは、仏教の「縁起」のことを示しているのだと思う。
「縁起が良い」という言葉があるが、これは何か良いことが起きる前兆のように使われているが、本来の意味は違う。
「縁起」という言葉は、「因縁生起」を略した言葉になる。
ものごとは、因があるから結果が生じる。
そして結果は、「縁」に応じて変わる。
「因果応報」という言葉はこのことを指している。
良い(縁)こと(因)に応じ、良い報い(果)が得られる
悪い(縁)こと(因)に応じ、悪い報い(果)が得られる。
花は種という(因)を蒔かないと咲かない。
そして、太陽の光、雨による水、土に含まれている栄養といった(縁)により結果は変わる。
種を蒔いて「水」をやり過ぎると、土の中の空気が失われ、酸素不足となり育たない。
しかし、「水」をやらなければ、種に水が与えられず、やはり育たない。
芽が出てくれば、次は光が必要になる。光のエネルギーを利用して水と二酸化炭素から有機物を生成して成長する。
この場合、種が「因」であり、光、水、二酸化炭素は「縁」になる。
「因」が「縁」により「果」になる。
因は同じでも良い縁により良い結果になるので、誰でも良い縁を求める。
それが、お賽銭の「良いご縁」や「始終ご縁」という語呂合わせになったのだと思う。
そうすると、寺での参拝であれば、問題はないが、神社で仏教思想を当てはめるというのはどうなのだろうか?
しかし、原理原則は神、仏、関係なく共通なので問題なしとしても良いかと思う。
参拝の方法
賽銭というのは、実は「お願いします」と祈願するために奉納するのではなく、「祈願成就のお礼」、つまり願い事が叶った時に奉納するものだという。
これまで、参拝といえば、以下の感じで行なっていた。
- 賽銭を賽銭箱に入れる。
- 鐘を鳴らす
- 神様への敬意と感謝を込めてお辞儀を2回する
- 拍手を2回する
- 祈願をする。
- お辞儀を1回する
お賽銭が祈願成就した時のものだとすれば、祈願する前に祈願成就のお礼をしないといけないことになる。
これまで、参拝やお賽銭について、知ろうとしなかったが、意味や目的を理解した上で行うというのは大切だと感じた。