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ラグビーワールドカップを日本に招致したのは誰か?

ラグビーのワールドカップは、世界三大スポーツの祭典の一つと言われています。

世界三大スポーツの祭典

夏季オリンピック
FIFAサッカーワールドカップ
ラグビーワールドカップ

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そんなラグビーワールドカップは、ラグビーの強豪国が開催国というのが、これまでの慣例だったようです。以下の開催国の履歴からもわかるように日本以外は、ワールドカップで3位以内の経験がある国ばかりです。

第1回 1987年 ニュージーランド・オーストラリア 
第2回 1991年 イングランド 
第3回 1995年 南アフリカ
第4回 1999年 ウェールズ
第5回 2003年 オーストラリア
第6回 2007年 フランス
第7回 2011年 ニュージーランド
第8回 2015年 イングランド
第9回 2019年 日本
第10回 2023年 フランス

ワールドカップの決勝トーナメントに進んだ経験もなく、第8回大会まではワールドカップで1勝しかしていなかった日本が、なぜ開催国になれたのでしょうか?

日本でのワールドカップ開催の誘致を始めたのは2004年です。
2011年の第7回大会に誘致しようということで、2011ラグビーワールドカップ日本招致委員会が発足し、会長には森喜朗氏が就任しました。

 

森氏はラグビーが好きで、学生時代にご自身でもプレイしていました。
早稲田大学に進学しラグビー部に入部したのですが、早くに挫折し退部しました。
当時早稲田大学ラグビー部の監督をされていた大西鐵之祐氏に大学を辞めることを伝えたのですが、「何が早稲田だ、何がラグビーだ。そんなことでお前の人生が全て決まるわけじゃないんだ。ラグビーを見返してやろうじゃないか」と言われ色々と考えた結果、国会議員の道を選択しました。国会議員になった時には、「スポーツ振興に注力しよう」という気持ちからラグビー普及に力を入れてきました。

森氏に大きな影響を与えた人物が、早稲田大学ラグビー部の監督だった大西先生とは別に、もう一人います。

それが外交官だった奥克彦氏です。
以下の事件を記憶されている方も多いのではないでしょうか?

2003年11月29日、イラクへ派遣されていた日本人外交官2人が、バグダード北西140kmに位置するティクリート近郊にて、日本大使館の車両で移動中、何者かに射殺された事件である。2015年現在も犯人逮捕には至っておらず、未解決事件となっている。

【引用元】

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森氏は、大西先生より、奥氏を紹介されました。
早稲田大学の後輩で、ラガーマンでした。


ラガーマンから外交官の道を選んだということで、大西先生が同じような道を選んだ森氏に何かあれば力になって欲しいと伝えました。それがきっかけで、森氏が総理になった時には、奥氏が総理官邸に勝手に一人で言って総理と話せるほどになっていました。

奥氏はラグビーはどこの国もイギリス中心で保守的だという点に不満を持っていました。森内閣が2001年に総辞職した時に、奥氏はもう一度、イギリスの日本大使館に送って欲しいと森氏に依頼してきました。

目的は日本でのワールドカップ開催について動いてみたいというものです。森氏の尽力でイギリスの日本大使館に公使として行けることになりました。そして奥氏は色々な国に出向いてラグビーワールドカップ日本開催の道を拓こうとしました。


奥氏はイラクに何度か行く内にイラクに一生懸命になり、そして長期出張扱いでイラクに行くことにしました。その頃のイラクは戦争の真っ只中で日本人は一人もいなかったそうです。しかし他国はイラクが危険な情勢の中でも各自の国旗を立てて、戦火の中を子どもたちを助けたりして頑張っていました。しかし、日本は何もしてないのが悔しく恥ずかしいと感じました。それがイラクに拘った理由です。

イラクへの経済支援は日本が一番でした。しかし、戦争が終わったあと、イラクは「戦争は終わった。ありがとう」というお礼の言葉を各国の新聞に出したのですが日本にだけはありませんでした。お金だけでは気持ちは伝わらないということです。

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奥氏の想いを聞いた森氏は外務省が「危険地帯」として警笛を鳴らしていたイラクへ奥氏を快く送り出しました。
そして、イラク日本人外交官射殺事件がおきたのです。
森氏は、俺が『行かしてやってくれ』なんて外務省幹部に言わなければ良かったと、ひどく公開しました。

そして、森氏は、奥氏が果たせなかったことを、何としても自分がやらなければ」と心に誓いました。その想いが森氏にラグビーワールドカップを日本で開催させようという「意地」に変えたのです。


2004年に、 日本はIRBへ第7回大会(2011年)への招致意思を表明しました。
そして、2011年ラグビーワールドカップ日本招致委員会が発足し、森氏が会長に就任しました。
森氏が招致活動を始めると、当時のラグビー界は「紳士的スポーツ」と謳っていながら、中身はまるで違っていたことに驚きました。

当時のIRB(国際ラグビーボード)は、以下の国の理事で構成されていました。

合計21名

上記のリストを見ておかしいとは思いませんか?
ラグビーの強豪国と認識されている国の理事は2名ですが、他の国は1名です。
これが何を意味するかというと、ラグビーワールドカップ開催地を決める際にはこの、21名の投票で決定されるということです。ラグビーのワールドカップ開催地は、おそらく理事が2名いる国でローテーションされていたのでしょう。

森氏は、これまで抱いてきたラグビーへの尊敬と畏敬の念が失われて、「こんなものに対して憧れを抱いていたのか」と、悔しさを感じたそうです。 

そんなことから会長を辞任する気持ちを固め、どうせお役御免であれば、当時のIRB会長である、シド・ミラー氏に言いたいことを言ってやろうと決意しました。「国連では、経済大国のアメリカや中国も、小国のフィジーやトンガも、すべて平等に1票ずつです。なぜ、ラグビーの世界だけが、力のある国が2票で、そうではない国が1票しかないのでしょうか?これが民主主義の先導国であるイギリスがやることですか?こんな時代錯誤的なことをしていることが世界に知られたら、恥ずかしいですよ。今すぐ改めなさい」と言ってやりました。

更に、「ラグビーというのは、15人全員でボールを運ぶスポーツです。フォワード(スクラムを組む8人。ボールの争奪戦でボールをキープしたり、奪ったりしてボールをつなぐポジション)だけでボールを運ぶラグビーなんて、つまらないでしょう。やっぱりウイング(バックスの両翼に位置し、快足を飛ばしてトライを狙うポジション)まで、ボールが広く展開されていくから面白いんです。そのラグビーの本家であるあなた方が、世界に展開せずに内輪だけでやっているなんて本末転倒というものです。そんなことをしていたら、必ずラグビー界は衰退していきますよ」とも言いました。

これは、日本の総理大臣だった人の言葉です。
シド・ミラー氏は怖れを感じました。

この内容がイギリスの新聞で「ラグビーワールドカップ開催地をウイングまで広げろ」というタイトルの記事として掲載されました。
その結果、世界的に「ラグビー界も変わっていかなければいけない」という認識に変わっていきました。

その後、森氏はロビー活動で色々な国の方達と交渉を行いました。
そんな時でも日本の元総理ということで、どこの国の理事であっても話がしたいと伝えれば、必ず会ってくれました。

票を獲得するためには、見返りをどうしても要求されます。スタジアムのネーミング・ライツを買ってくれる企業を探してほしいとか、ラグビーの試合の興行権が欲しいといった感じです。
森氏も何とかしようと頑張ったのですが、残念ながら2011年の開催は、ニュージーランドに2票差で敗れました。

そして森氏は2015年の招致に向けての活動を始めました。
2015年大会の招致で手を挙げていたのは、イングランドと日本でした。

連合王国スコットランドウェールズアイルランドは、絶対にイングランドでは開催させたくないという気持ちがあるそうです。そして日本は、アジアから殴り込みをかけてきた国ですから、どちらも他国にとっては好まれない国でした。
そのような背景から、2015年と2019年はイングランドと日本に決めてしまって、どちらが最初にやるかは、当事者でで決めてもらいましょうということになりました。

最後は、好きにしてくれという感じでワールドカップ日本開催を手にいれたのです。
これが2009年のことでした。

なんだか、あっさりと決まってしまいましたが、話はそうは簡単に終わらなかったようです。

2015年7月17日、安倍晋三首相は、新国立競技場(東京)でのラグビーワールドカップ日本大会の開催は、断念せざるを得ないと発表しました

これは国際コンクールで正式決定した新国立競技場のデザインだと工事費用が高すぎるということで白紙撤回されたのです。その結果、建設計画が振り出しに戻るため工期がずれ込み2019年のワールドカップどころか、2020年のオリンピックにも間に合わないのではないか?とさえ当時は騒がれていたのです。そうなるとワールドカップには間に合わないと判断せざる得なくなります。

安倍総理の発表直後、ラグビーの国際統括団体である「ワールドラグビー」より日本の招致委員会に詳細な説明を求めてきました。

招致委員会は謝罪すると共に、新国立競技場を使用しない開催計画を作成し日本政府も大会をバックアップするということをワールドラグビーの会長に伝えました。


日本側とワールドラグビーとの交渉は、2015年ラグビーワールドカップの日本の初戦の直前になっても終わりませんでした。
どうしても、ワールドラグビー側はメインスタジアムの変更に対する怒りが静まらず、再度、日本での開催については再決議の必要があるということになりました。
メインスタジアムの変更を執拗に問題しているのは、チケット収入なのです。その頃、新国立競技場の収容人員は8.5万人の計画でしたが、代替案の横浜国際総合競技場の収容人数は7.2万人です。ワールドカップは4年に1回なので、ワールドラグビーにすると4年分の活動費を確保する重要な収入源なのです。

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そんな中、南アフリカが付け込もうとしてきました。
日本大会のメインスタジアムが変更になれば、ワールドラグビー執行部の失態だと反会長派の理事達にメールを送ったのです。

このような問題が起きている中で、ワールドカップ 日本対南アフリカ戦が始まりました。その裏では、ワールドカップ開催をかけても日本対南アフリカの戦いも起きていたとは想像できなかったはずです。

そしてあの、歴史的勝利が起きたのです。

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これで風向きが一変し日本への追い風に代わりました。

ワールドラグビーの会長をはじめ、幹部や各国理事も大喜びで、日本開催で良いのでは?という雰囲気に変わってしまったのです。
どんなに説明しても納得してもらえなかったのに、日本の歴史的勝利がいとも簡単に考えを変えさせたのです。
もちろん、日本開催で再議決されました。

2015年のワールドカップで日本は南アフリカに歴史的勝利を果たしましたが、同時に、日本でのワールドカップ開催も南アフリカから勝ち取ったのです。

日本でのワールドカップ開催には、色んな人の想いや、努力、根気が詰まっています。

それは、奥氏から始まり、森氏や色々な関係者にパスが渡り、最後はラグビー日本代表がトライを決めたのです。

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森氏は、ワールドカップの日本開催が評価され、2018年にワールドラグビー(本部/アイルランド・ダブリン)からヴァーノン・ピュー賞を受賞しました。この賞は、元IRB(現在のワールドラグビー)会長であったヴァーノン・ピュー氏の生前の功績を称えて2004年に制定されたもので、ワールドラグビー最高位の賞です。


ここで終わってくれれば、良かったのですが、まだ続きがあるのです。
時は2019年でワールドカップ開催の4か月前です。


丁度、今年は、2年に1度行われる日本ラグビー協会の役員改選の年でした。
役員改選は6月に行われるのですが、9月のワールドカップを控え、当初、現会長体制が継続されそうな流れでした。
4月の定例の理事会に森名誉会長がアポなしで参加し、議論が大詰めを迎えると、森氏が口を開きました。内容はワールドカップ前の盛り上がりの薄さへの叱咤、自らの名誉会長の辞意でした。加えて、元会長もポストを退くよう促したようです。その理由は「組織の若返り」が必要だというのです。若返りは確かに必要なのでしょう。しかし、あと4か月でワールドカップなのです。しかし、森氏にとっては、そんなことは関係ありません。ワールドカップ前だからと自分が名誉会長を続けても意味がないなら辞任するのが森氏です。日本のラグビー界のためかどうかなんですね。森氏らしい考え方だと思います。森氏は既にワールドカップのあとを見据えていたのです。


名誉会長が上記のような理由で辞任されたら、会長も同調せざる得なくなります。
会長も辞任しました。新しい会長は67歳の会長なので若いとは言えませんが・・・(笑)

で、「ラグビーワールドカップを日本に招致したのは誰か?」という答えですが、あえて言う必要はありませんよね。

【出典】

 

seege.hatenablog.com