小説が嫌いな人でも読める小説?
小説が嫌いだという人がいたとしよう。
そんな人に、小説を読んだことがなくても大丈夫なので、この小説を是非読んでみて欲しいってことを言われて素直に読む人がどれくらいいるだろうか?
大丈夫だと言っているのは小説が好きな人
少なくとも自分は読みたいと思わない。
なぜか?
まず、大丈夫だと言ってるのは小説が好きな人であって小説が嫌いな人ではない。
更に小説が嫌いな人の理由も確認せずになぜ、大丈夫だと断言できてしまうのだろうか?
例えば、小さな文字を長時間読むのが辛い場合だとどうだろうか?
内容がいくら面白くても小さな文字を10分も読み続けることができない人に、この小説は面白いから読んでみてと言われても10分で面白いと感じさせなければ、それ以上は読んでもらえない。
10分読むにしても、最初から読む気がない人だと真剣に読んでもらえないかもしれない。
真面目な人だと出てきた単語の意味がわからなくて、内容が理解できないと読むのを諦めてしまう場合もあるだろう。
こうなると、読み続けてもらえないので、お終いだ。
なぜ嫌なのか?
更には無理やり本を読ませようとする人に対して反発心を感じ絶対に読みたくないって思う人もいるだろう。
このため、なぜ小説を読むのが嫌なのかは最低限、確認しないといけない。
最低限、本を読み続けることができる人でなければ小説を読むという作業は成立しないのだ。
それを怠り、大丈夫などと簡単に断言してしまうのは間違っている。
つまり、そんなことも考えずに気楽に、大丈夫などといってしまう人が薦める本を読んで、その通りになるとは思えないというのが率直な感想だ。
食べ物に例えると・・・
これを食べ物に例えると、わかりやすいだろうか?
子供の頃、トマトが自分は苦手だった。
青臭いなんとも言えない味が苦手で美味しいとは思えなかった。
しかし、このトマトは青臭くないし、美味しいよって言われても、それはトマトが好きな人の言葉であり、嫌いな人が食べたわけではない。
納豆が嫌いな人は、まず納豆の匂いが臭くて嫌いだが、納豆が好きな人にとっては逆に食欲をそそる匂いになることからも好きな人の言葉が必ずしも嫌いな人にも当てはまるとは言えない。
自分も納豆は苦手だが、好きな人がいるということは好きになれる、何かを「納豆」が持っているということだと思う。
納豆が嫌いな人に対して、この納豆は大丈夫だと言えるのであれば、それは、好きになる何かをわかっていないと言えないはずだ。
自分はトマトが嫌いな理由が、青臭くて中がグチャグチャしているところだった。
グチャグチャが青臭さを強調していた。
しかし、今のトマトは青臭さがなくなったので、好きだとまでは言えないが、少なくとも食べられるようにはなった。
小説が読めない人が読めるようになるには、読めない理由がわからなければ読める小説を紹介することなんてできない。