何もしてないのに
理不尽なことが起きると、つい出てくる言葉。
「俺が何をしたっていうんだ?」
自分は何もしていないのに、なぜ、こんな目に合わないといけないんだ?
何もしていなければ、悪いことは起きないという思い込みから、つい出てくる言葉だと思う。
日本人は「何もしていない」ことは「善」だと考えている人が多いと思う。
しかし場面によっては善どころか、「悪」になることもある。
たとえば、通勤時間に、歩きスマホをしながら前を歩いていた人が躓いて転んでしまい、カバンの中身を散乱させてしまった場面に遭遇したとする。
散乱したものを拾ってあげていると電車に間に合わなくて、遅刻するかもしれない。
何より歩きスマホをしていた人が悪いんだから、そんな人のために遅刻のリスクをおかしてまでなぜ手伝ってあげないといけない?
何もしないことは「善」か?
結局、「何もしない」で立ち去ることは「善」といえるのだろうか?
道徳的には禁止されている歩きスマホで転んでカバンの中のものが道に散乱したのだから自業自得。
遅刻するかもしれないのに、全く知らない人のために手伝う義理もない。
手伝わずに立ち去ったとしても責める理由はないと考える人は少なくないはず。
関わりたくない大きな理由は3つあると思う。
- 歩きスマホはいけないこと。
- 通勤中で遅刻する可能性がある。
- 面倒なことに関わりたくない。
歩きスマホを重視する人なら自業自得なんだから痛い目を見て悔い改めれば良いと考えるだろう。
遅刻したくないことを重視する人なら、後ろ髪を引かれる気分で、その場を立ち去らないといけない。
面倒だと感じる人は、拾うのを手伝ってあげても他人に触れて欲しくないものや、見られては困るものもあるかもしれない。
壊れていた場合や、無くなっていたりすると自分の責任にされるかもしれない。
うっかり、手伝って面倒なことに巻き込まれるのは嫌だと考えたのかもしれない。
法と道徳
立ち去ったあと、色々と考える人は、多少なりとも後ろめたさを感じたからであり、自分の判断は「善」だと自信を持てる人であれば、考えることはないはず。
自分の判断に対して「悪」を感じるから何とか自分の正当化しようと、あれこれ考える
のだろう。
そう考えると、「何もしないこと」は「悪」とは言い切れないが、「善」とも言えないのではないだろうか?
つまり、「何もしないことは」完全に黒とは言えないが、完全な白だとも言えない状態。
つまり、グレーということになる。
今回は、曖昧な事例をあえて、選んだが、もっとハッキリした内容だと、土曜日の休みの時に、電話をしながらATMの操作をしている高齢者を見かけた時に何もしないことはどうだろうか?
特殊詐欺の被害に会っているかもしれないのに「何もしない」という判断は罪にはならないかもしれないが、何もしないという判断は「善」ではないはず。
世の中には法律では罰せられないことは多い。
法だけではどうにもならない時のために「道徳」がある。
法が黒の判断基準を定めたものだとすれば、道徳は「白」でないことに対する判断基準だと言える。