語学の天才まで1億光年
本の紹介記事を読んでいて、「語学の天才まで1億光年」というタイトルが気になった。
「語学の天才まで」は理解できたが、1億光年とはどういう意味なのだろうか?
1億年でも十分凄いのに1億光年と書かれてあるので、語学の天才までの道のりは果てしなく遠いということを、この本で伝えたいのだろうか?
独自の学習法で25以上の言語を学んできた著者が、学習法と実践の記録をエピソードとともに披露するという内容らしい。
語学は魔法の剣!
学んだ言語は25以上!の辺境ノンフィクション作家による、超ド級・語学青春記。
自身の「言語体験」に基づき、「言語」を深く楽しく考察。自動翻訳時代の語学の意味を問う。
さらにネイティヴに習う、テキストを自作するなどユニークな学習法も披露。語学上達のためのヒントが満載。コンゴでの「語学ビッグバン」体験により、語学の面白さに目覚め、以後、現地を訪れる際に必ずその言語を学ぶ言語オタクと化した著者。
辺境の言語で辞書もテキストもない場合は、ネイティヴを探して学び、文法の法則は自分で見つける。
現地で適当に振り回すと、開かずの扉が開くこともある語学は「魔法の剣」だという著者。地域や人々を深く知る上で、語学がいかに有効な手段であるかも綴られる。
現地では話せるのが普通
本の内容説明だけを見ると確かに語学のヒントになりそうな内容が色々と書かれているように思う。
英語だけでも習得するのが大変なのに、25もの言語を学ぼうとするなんて、余程、語学が好きじゃないと無理。
考えてみると、言語は、現地の人達は当たり前のように話しているのだから現地では普通のこと。それが話せたからといって特別なことではない。
英語なんて世界中に話せる人はワンサカいるはず。
日本人が日本語を話しているのと何ら違いはない。
いや、むしろ、英語より日本語の方が覚えることが多いので、日本語を話せる方が凄いはず。
日本語には50音だけではなく、文字にするとひらかなにカタカナ。それに漢字まで登場する。それに比べると、英語はアルファベットが26文字。せいぜい、大文字と小文字に別れる程度なので、日本語が覚えられた日本人なら英語を覚えることなんて簡単なことなのかもしれない。
そんな日本人が英語は、中・高と6年間勉強しても話すこともできない。
英語の勉強は大人になっても続くが、挫折を繰り返すことになる。
だから英語を話せる人を見ると「凄い」なんて感じてしまう。
自動翻訳の進化
そんなことを繰り返している間に「自動翻訳」の方が先に、英語を話せるようになってきた。
数年前までは、不自然な翻訳をしていたのが今はかなり適格に翻訳されるようになってきた。
例えば、「星の王子様」の有名な一文。
- What is essential is invisible to the eye.
これは、以下のように翻訳されるようになっている。
- 本質的なものは目には見えません。(DeepL)
- 目に見えない大切なもの。(Google)
- 不可欠なものは目に見えない。(みらい翻訳)
【出典】DeepL Translate: The world's most accurate translator
特に、Googleの翻訳は、人間が直感的に感じた意味を訴えてくるようになっているのが凄い。
完全に自分を超えてしまっている(笑)
それだけではなく、音声を聞くボタンをクリックしたときの発音もまるでネイティブのようで違和感なく聞こえる。
これまた、完全に自分を超えてしまっている(笑)
最低1つはマスターしないと
しかし、いくら自動翻訳が発達しても最低、1つは自分で理解できる言語をマスターしておく必要がある。
でなければ、文字通り「話」にならない。
では、どのように学ぶのが一番良いのだろうか?
少なくとも、自分が中学や高校の頃に習っていたような方法では無理だと思うし、そもそも6年間といっても英語は1時間の授業が週に2回程度。
1ヶ月10回で72ヶ月なので720回。
時間にすると、720時間。
1日8時間で計算すると、90日程度になる。
90日程度の時間で6年間勉強したなんて、おこがましい。
日本語をマスターするのにどれだけ要したか?
自分が日本語が話せるようになるまでに何年かかったのだろうか?
3歳で片言で話せるようになって、その後、平仮名が書けるようになって小学校で、ようやく漢字が書けるようになると、会話が普通にできるようになっていた。
つまり小学1年生レベルに到達するまでに生まれてから6年間要したことになる。
小学6年生レベルだとその倍の12年間。
それも、起きている間は常に日本語を勉強しているようなものだ。
中学、高校の授業だけで追いつけるレベルではない。
しかも子供の頃が一番時間の融通が利くわけで、大人になれば、仕事やその他諸々で、子供の頃のように話すことだけに費やす時間が割けるわけではない。
そう考えると、「語学の天才まで1億光年」というのも、なるほどという気がしてきた。
再度、自分が日本語を覚えてきた過程を振り返ってみると、生まれたばかりの時は当然、日本語は話せないし理解もできない。
こんな状態からよく、ここまで日本語が話せるようになったものだと思う。
最初は、ただ日常生活で親を始めとした周りの人達が話していることを、ひたすら聞いていたというより耳から入ってきた。
その中から、頻繁に使われる言葉の音が自然と耳に残るようになり真似をして口にするようになる。
しかし意味はわからない。
繰り返し使っている内に、その時に共通する場面から自分なりに理解したことをイメージとして言葉に結びつけていく。
こうして少しずつ、言葉を覚えていく。
言葉にすると根気の必要な作業だと思う。
今の自分では、とても続けられるように思えない。
しかし、初めての言語を学ぶときに、言葉を音として耳から入れるということは避けられないように思う。
テレビは子供の教育によくないと言われているが、それは言葉の意味がわかるようになってからの話であり、言葉の意味がわからない子供にとっては、色んな言葉が映像と共に耳に入って来る貴重な情報源だと思う。
国語が苦手な子の共通点は「テレビを見ていないこと」だという説もあるようだ。
興味と関連性
そして、言葉を学習する際にもう一つ大切なのは「興味を持つ」ということ。
例えば、1年前の夕食で食べたものは?何?と聞かれて即答できる人はいないと思う。
通常、1年前に何を食べたのか?という情報は必要な情報ではないので、覚える必要も忘れたくても、覚えてしまうような要素もない。
それでも、即答できるとすれば、何か印象に残った出来事があったからではないだろうか?
例えば、1年前、誕生日の夕食で食べたものは?と聞かれると覚えている人は、かなり増えるはず。
それが特別な食事でなかったとしても、「誕生日」に仕事をしていて、食事に行く時間さえ惜しくて「カップラーメン」を食べていたとすれば覚えていても不思議はない。
もしかすると、カップラーメンの銘柄まで覚えているかもしれない。
誕生日の食事の例で言えば、単に1年前の夕食では、結びつくことがないので、次が出てこない。
しかし、1年前の「誕生日」というキーワードが付加されることで誕生日に関連する様々なエピソードが思い出される。
去年の誕生日は?→仕事だった・・・→その時の夕食は?→食べに行く時間が取れなかった→カップラーメンを食べていた・・・といった具合。
子供の頃、言葉と意味を繋げる際に、使えるものは、言葉が耳に入ってきた場面のイメージなのではないだろうか?
テレビで猫が七輪で焼いている秋刀魚を狙っていて、突然七輪から盗んでいった時のシーンを見ていて親たちが、大笑いしていた時の場面を子供が見ている場合に色々な言葉出てくるはず。
猫、秋刀魚、七輪、くわえる、逃げた・・・
この場面だけでも、たくさんの言葉が登場する。
そして、子供が、秋刀魚を差して「ねこ」と叫んだとする。
親は、あれは「さんま」と訂正する。
こうして子供は、指さしたものが「ねこ」ではなく「さんま」だったと理解する。
こうやって学習していくのだろう。
自動翻訳の技術も大切ではあるが、これに伴い自動翻訳のアルゴリズムが、人間が言語学習する際にも使えるようになるのではないか?と考えている。