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【今週のお題】新文章読本(川端康成)

今週のお題「最近おもしろかった本」

川端康成の著書

2022年にノーベル文学賞が決まって、ノーベル文学賞を過去に受賞した日本人の著書を読んでみたくなり「川端康成」の著書を探していた。

川端康成と言えば、伊豆の踊子、雪国・・・そう、雪国と言えば、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

雪国もこの先は知らないので、雪国を読んでみようかと思ったが、ふと、1冊の本に惹きつけられた。

それは、「新文章読本

「まえがき」の最初から、この人は凄いと思った。

少年時代、私は「源氏物語」や「枕草子」を読んだことがある。

手あたり次第に、なんでも読んだのである。

勿論、意味は分かりはしなかった。

ただ、言葉の響きや文章の調を読んでいたのである。

それらの音読が私を少年の甘い哀愁に誘いこんでくれた。

つまり意味のない歌を歌っていたようなものだった。

しかし、今思ってみると、そのことは私の文章に最も多く影響しているらしい。

その少年の日の歌の調べは、今も尚、ものを書くときの私の心に聞こえて来る。

私はその歌声にそむくことは出来ない・・・。

【引用】川端康成 新文章読本 前書きより

上記は、川端康成の古い文章の一節のようだ。

子供の頃に音読することの重要性を読みやすくかつ、わかりやすく自分の体験談として説明している。

子供が親の話している言葉を「聞いて」真似て音にするという行為は、言葉を覚える上で重要なことだと思う。

ここで大切なのは「聞く」であり「聴く」ではない。

※「聞く」というのは、耳に音を入れる行為であり、聞いて意味を考えるのは「聴く」になる。

音を繰り返し聞いて覚えることが重要になる。

意味はわからないが、何気に言葉として出て来るようになるまで繰り返し聞く。

聞きなれない言葉

川端の文には自分があまり目にしない言葉がたくさん使われている。

「殊に」「往時」「奇警の言」「小説は言葉と文字に依る芸術」「死命」・・・

この本が出版されたのが1954年なので、70年近く前になるので、この当時は普通に使われていた言葉なのだろう。

そして、「言葉」「文章」「表現」の重要性を説いている。

川端の、小説を志す人にとって、文章は永遠の謎であり、永遠の宿題であろう。という言葉が実感できた。

この本で文語体と口語体についての説明にかなりの時間を費やしている。

そして、眼で文字を読まないでも、耳で聞いただけで意味のわかる文章が新文章だと言う。

ここで、この本のタイトルに使われている、「新文章」というのは「新」文章ではないことがわかった。

そして、その川端が凄いと感じた作家の名前が何人かあげられ、小説の一節を紹介しながら凄さを説明してくれている。

中でも自分が惹きつけられたのは、徳田秋声横光利一

徳田秋声と言えば、金沢ゆかりの三文豪の一人で、この本で、泉鏡花についても凄い作家の一人として書かれていた。

左から室生犀星泉鏡花徳田秋声

両者のことを以下のように説明している。

徳田秋声

近代の作家のうちで、天衣無縫とも称すべきは、徳田秋声氏の文章であろう。

横光利一

蓋し(けだし)「国語と格闘した」と自らいったことのある横光利一氏ほど、文章表現の変貌を重ねた作家は稀で、又それが新規を目ざす気紛れではなくて、実に文章の近代的表現への苦闘であったからである。

横光の遺作、微笑

特に横光の遺作となった「微笑」の坂道を下る時のようにどんどん読ませてしまう文章力は自分にも伝わってきた。

以下は遺作となった「微笑」からの一節。

ある日の午後、梶の家の門から玄関までの石畳が靴を響かせて来た。石に鳴る靴音の響き加減で、梶は来る人の用件のおよその判定をつける癖があつた。石は意志を現す、とそんな冗談をいふほどまでに、彼は、長年の生活のうちこの石からさまざまな音響の種類を教へられたが、これはまことに恐るべき石畳の神秘な能力だと思ふやうになつて来たのも最近のことである。何かそこには電磁作用が行はれるものらしい石の鳴り方は、その日は、一種異様な響きを梶に与へた。ひどく格調のある正確なひびきであつた。それは二人づれの音響であつたが、四つの脚音の響き具合はぴたりと合ひ、乱れた不安や懐疑の重さ、孤独のさまなどいつも聞きつける脚音とは違つてゐる。全身に溢れた力が漲りつゝ、頂点で廻転してゐる透明なひびきであつた。

時代は戦争末期。「排中律」を軸に狂気を含む栖方の言動と、その言動に反応する梶の心象風景で綴られる。戦争に勝っている間は、こんなに勝ち続けてよいものかと愁い、敗色が濃くなると祖国の滅亡に耐えられない梶の心は、栖方の新武器に対する期待と共に、それを手にする人間の善悪にも及ぶのである。戦争は終わり、敗戦を知った栖方は狂死する。梶は疎開先で新聞記事を読みそれを知り、何より美しかった栖方のあの初春のような微笑、を思い起こす。

この小説、とにかく背中を押されるように、ついつい先を読んでしまう、いや読まされてしまうというのが正しい気がする。

簡単に言えば、凄く読みやすいように、計算されて書かれている文章だと思う。

新文章

これが、川端の言う、「新文章」と言えるのだろうか?

川端は、しばしば、新文学在る所つねに必ず新文章あり、と述べている。

独自の文章・文体を持たぬ限り、傑出した作家にはなり得ないとも書いている。

各々の作家は各々の個性を持つように、当然文章・文体にもつねに独自の風を作りあげていた、とも書いて来ている。

川端は、この本で、「深くなやむ者だけが、いつも正しい。」とも述べている。

小説の奥深さを思い知らされたと共に、文章について考えさせられた一冊だった。

この本で、横光利一の「微笑」という本に巡り合えてことも大きい。