自分の身は自分で守る
今は、幼児だからと周囲の大人たちが守ってくれるとは限らない。
このため、幼児でも自分の命は自分で守らないといけない。
そんな中、幼児が通園バスに取り残された時に備えて、クラクションを鳴らすことを教える場が設けられたという。
車の中から自力で出られないなら幼児でも外部に知らせる方法がないか?と考えた結果出てきたのだろう。
静岡県の認定こども園で3歳の女の子が通園バスの車内に取り残され熱中症で死亡した事件を受けて、
埼玉県狭山市の幼稚園で園児たちに万一の際は誰かが助けに来てくれるまでクラクションを鳴らし続けることを教える取り組みが行われました。
この取り組みは、狭山市の武蔵野短期大学附属幼稚園で行われ、年少の園児や保護者など合わせて100人余りが参加しました。
園児が通園バスに取り残されたことを想定し、はじめに警察官が、万一の際は誰かが助けに来てくれるまでハンドルのラッパのマークを押し続けることを園児たちに教えました。
コロンブスの卵
なるほど!と思うと共に、「コロンブスの卵」だと感じた。
幼稚園や保育園に対応を求めるだけではなく、それでも万が一閉じ込められた時には自力で何とかできるようにしておく。
埼玉県警狭山警察署と武蔵野短期大学附属幼稚園との合同訓練で行われたということで、素晴らしい取り組みだと思った。
連日、報道されていた事件なので、自分も、何か対策が取れないか?と考えていたが、バス内に温度センサーと人感センサーを設置して高温状態で人がいる場合には指定された連絡先に連絡が届くようにするといった程度しか思いつかなかった。
自分には、幼児自身がクラクションを鳴らすという考えは全く考えていなかったので我ながら情けない・・・
普段から安全・安心を第一に考えている人達だから考えることができたものだと思う。
知恵を出すためには「必要は発明の母」という言葉もあるように、やはり「必要」という気持ちが必要なのかもしれない。
なぜ、不幸な事故が起きるのか?
反面、子供がバスに取り残されることが、なぜ起きてしまうのかが、どうしても理解できなかった。
人様を乗せて運転する立場であれば、最後に忘れ物がないか?という確認は必ず行うものだと思う。
ましてや小さな子供を乗せていたのだから忘れ物は絶対にあるはず。
バスでの移動中に眠ってしまう子供もいるだろうし、なぜ確認しないのかが不思議でならなかった。
それだけではない。
出欠確認でなぜ、いないことに気付かなかったのか?
大人ばかりの会社であっても、始業時刻に何の連絡もなく出勤していない者がいれば本人に確認を取っている。
それが小さな子供を預かっている幼稚園で、なぜ本人確認ができないのだろうか?
静岡の事件の場合は、理事長が運転、職員が同乗しており、理事長は職員が確認していると思い込み、職員は、出欠確認で確認してくれるという思い込み、出欠確認する方はバスの運転手、同乗していた職員が確認してくれているという思い込み。
全てが他人任せの日本人
今の日本は他人任せの人が増えていて、有名人の人が、美味しいと言ってたから、テレビで紹介されていた商品だとか、SNSで今、バズっているとか、自分以外の人が選んだものから選ぶことが多い。
これは、そういう環境にどっぷりと浸かってしまっているからで環境を変えなければ変わらないと思う。
誰かが選んだものの中から選んだ方が、無駄な選択をしなくていいから効率的じゃん。という考え方もあるが、こういう考え方が、幼児をバスに置き去りするような幼稚園が存在する社会に変えたのだと思う。
無駄や効率ばかり考えてしまう
そもそも、親が自分の子供の面倒を見ないで、幼稚園や保育園に預ける仕組みが他人任せだと言えるのかもしれない。
自分も仕事では効率的に、無駄は廃止するという考え方で行なっているが、それは仕事だからであって、私生活にまで取り入れる必要はないのかもしれない。
出かける時に戸締りは家族がやってくれただろうと自分で確認しないことを繰り返していて、家族も同じように考えるようになったら、いつかは誰も戸締りしないで出かけることになる。
だから、無駄かもしれないが、戸締りしたかな?と思ったのであれば、誰かがやってくれているはずだと、確認もしないで都合のようように解釈しないで確認するべきだと思う。
保育士のロボット化
幼稚園も今では効率化や無駄の廃止を求められている。
更には抜け防止ということから出欠の確認でさえシステム化されてしまっている。
ここでも、出欠確認はシステムがやってくれるからと都合よく考えてしまうことになる。
これでは、機械保育士のように見えてしまう。
幼児のことを見ないで、スマホやパソコンの画面を見ている。
幼児のことを見ているのはロボット・・・
今は、そんな時代に見えてしまう。
効率や無駄を考えれば、何でもプロに任せる方が良いのかもしれないが、他人任せでは親としての資質は向上しない。
ここでも「必要が発明の母」だとすれば任せられる人がいれば親は不要になってしまうので資質が向上しないのは当然の結果になる。
今の日本は何でも他人任せになってしまい、自分で知恵を出す機会が減ってしまい、アイディアが出て来なくなったように感じた。