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富士山よりも八ヶ岳?

永田町なのに日比谷高校

日比谷高校の東大合格者数が1名という見出しの記事を見つけた。

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日比谷高校は、出張に行った際に窓から外を見ていると屋上に「日比谷高」と表示されているので知らない学校でも「日比谷高校」なんだと直ぐにわかる(笑)

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しかし、千代田区永田町にあるのに、「日比谷」というのは不思議だと思うのではないだろうか?

元々は日比谷にあったようだが引っ越しを重ね、戦後、高校の名前を変える時に元々あった場所の日比谷という地名を選び、日比谷高校としたようだ。

山王坂の方には3面のテニスコートがあって山王坂を下り学校に入っていく生徒がいる。

おそらく溜池山王駅から来た生徒なのだろう。

北側の通用門は赤坂見附駅または、永田町駅からの生徒が利用することになるが、通用門は、遅刻坂と呼ばれる激坂を登り切った場所にあるので登るのが大変だそうだ。

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富士山よりも八ヶ岳

1969年に学校群制度を導入した当時の東京都小尾乕雄教育長が唱えた言葉だ。

富士山は日本人なら誰でも知っている日本一高い、標高3,766mの山。

八ヶ岳は、山梨・長野両県に跨る山々の総称で、標高は2,899m。

学校間の格差を減らし、いろいろな学区で複数の優秀な学校を作ろうとしたのである。

富士山のように日本一高い山が一つではなく、八ヶ岳のように高い山々が連なるようにしたいと考えたようだ。

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学校群制度導入前は、各都道府県に存在した、旧制第一中学と呼ばれる公立高校があった。

そこには天才や秀才が集まり、東京大学への進学実績も非常に高かった。

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東大へ193人

東京都の旧制第一中学は、現在の「日比谷高校」で、1964年には東大へ193人を送り出している。

  • 1960年:141人
  • 1961年:171人
  • 1962年:186人
  • 1963年:168人
  • 1964年:193人
  • 1965年:181人

その頃の日比谷高校は9教科(国語、社会、数学、英語、理科、音楽、美術、保健体育、技術・家庭)の試験があり各100点満点で、合計900点

830点以上取らないと合格できなかったと言われている。

つまり平均点が90点でも合格できなかったことになる。

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日比谷高校では、自発学習を重んじており、テストが自発学習の妨げになるということでテストの回数を極力減らしたり、受験のための補習授業も行わず、1教科100分の授業を重視していた。

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日比谷高校受験のため住民票を移していた

日比谷高校に合格するためのエリートコースは、東京の番町小学校麹町中学校だった。

しかし、小学校・中学校には学区制があるため、特定の学区に住んでいる必要がある。

このため、学区外に住所がある家のものが、学区内にアパートを借りて住民票を移して越境入学を行う者が増えていった。

1965年には番町小学校の生徒数の6割が越境入学だったという。

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都立高校に学校群制と学区制の導入

このように住民票を移してまで1校に集中する状況は異常であり、富士山程の学校格差があると感じた東京都は、学区制の枠内で学校格差を緩和しようとして1967年に学校群制+学区制を導入した。

日比谷高校は第一学区(千代田区、港区、品川区、大田区)で、三田高校、九段高校と学校群(11群)を組んだ。

つまり、日比谷高校を受験するのではなく、「11群」を受験し、合格すると、この3校に成績バランスが取れるように振り分けられた。

このため、学区制があるので、千代田区、港区、品川区、大田区のいずれかに住民票が登録されている必要がある。

その上で、11群を受験して合格する必要がある。合格したとしても、日比谷高校ではなく、三田高校、九段高校に回されること可能性もある。

これでは、入りたい学校に入れない。

日比谷高校ブランドの崩壊

優秀な生徒は私立高校へ流れていき、日比谷高校の東大合格者数は年々、減少し、1970年には100人を切ってしまった。

その後も、減りは止まらず、1971年には57人、1972年には52人、1973年には29人となり、1993年には史上最少の1人にまで落ち込んだ。

その結果、都立高校離れが進み、日比谷高校は有名私立高校の滑り止めになるまでに地に堕ちた。

人と山は違う

成績が100位以内だった者が集まり授業を行うのと、500位以内だった者が集まり授業を行うのでは授業の内容も時間配分も変えないといけない。

1位の人であれば10分で理解できてしまうことでも、500位の人だと理解できずに終わってしまう可能性もある。

初心者向けの集合研修があると、一人くらいは何故か初心者とは思えないような質問をしてくる人がいる。

既に初心者レベルではないので、受講対象ではない。

しかし、他の人は初心者なので初心者レベルを超えた質問をされても理解できない。

逆の場合もある。

上級者コースに初心者レベルの人がいると、今度は初心者が足を引っ張ることになる。

実習を行っても一人だけなかなか、作業が終わらず他の者は、待つ時間が増えてしまう。

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そもそも、富士山を八ヶ岳にするというのが大きな勘違いだったように思う。

元々、1位~100位レベルの人だけだった山に、500位までの人を集めれば、標高差が大きくなるだけではないのだろうか?

つまり、学校群というのは元々八ヶ岳だったものを富士山にしてしまったのではないかと思う。

富士山の頂上が仮に東大合格だとする。

900点満点の試験で830点を取れるような人を集めるというのは、富士山の9合目(標高3600m)まで登って来れるものだけを集めたようなものだと思う。

それを富士山の7合目(標高2700m)まで登って来れる人にすれば、より多くの人が集まる。

その分、レベルの格差は広がる。

同じ人数を集めるなら富士山の9合目まで登って来れる人を集めるのと、7合目まで登って来れる人を集めて頂上を目指すのであれば、どちらが高い確率で頂上に到達できるのか?は明白。

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そう考えると、日比谷高校は、富士山の9合目まで登って来れる人を集めておきながら、全員を頂上に到達させることができなかったと考えることもできる。

自発学習と言っても、結局は優秀な生徒に依存していただけとも受け取れる。