2021年7月29日に保育園の送迎バスに閉じ込められて熱中症で死亡した事故があった。
警察は2021年12月17日に当時の園長など4人を書類送検した。
当時園長だった女が1人でバスを運転し、車内には1歳から5歳の園児が7人いた。
園児を降ろす際、園児を降車させる係と、担任、副主任の保育士だった2人の4人が書類送検されている。
この事故を受けて、社内の人の動きをセンサーで検知するというシステムを開発したという報道があった。
福岡県中間市の保育園で園児が送迎バスに閉じ込められ熱中症で死亡した事故を受けて、直方市の業者が、車内の人の動きをセンサーで検知しパソコンで確認できるシステムを開発した。
開発したのは、株式会社サイバネテックという会社で電子機器の設計、開発を行っている。
安全面を考えるとこのようなシステムを開発することは悪いことではないのかもしれないが、園長を含め、4人もの保育士が書類送検されている点が大きな問題だと思う。
なぜ、このようなことが起きてしまったのか?ということを考えないと、バスに取り残されることは無くなっても、別の内容で事故が起きる可能性が残っているように思う。
事故が起きてから起きないようにする仕組みを作っても遅い。
根本的に人の問題を解決しないと、このような事故は無くならないのではないだろうか?
大丈夫だろう
最近の報道を見ている限り、気の緩みによる事故が目立つように思う。
送迎バスの件では、車から全員が降りたあとに、人が残っているかどうかの確認はしなくても、忘れ物がないか?の確認は最低限すると思う。
特に幼児を載せているバスなら子供が寝ていたり、何かを忘れて降りてしまうことは多いと思う。
しかし、車内の確認をしていなかったという。
2人も保育士がバスに乗車していて誰が乗ったのか?誰が降りたのか?ということを確認していなかったのだろうか?
仮に確認していなかったとしても、朝の出欠確認は必ず行なうものだと思う。
しかし、それさえも行っていなかった。
出欠確認が、なぜ行われていなかったのだろうか?
降車後の確認をしなくても「大丈夫だろう」、出欠確認をしなくても「大丈夫だろう」という気の緩みが今回の事件を招いたのだと思う。
保育園のホームページに「保育理念」という内容が書かれている。
「やさしい心」
- 一緒に過ごすお友達、家族、そして自分を大切にして、思いやる気持ちを養う。
- くつろいだ雰囲気の中で、情緒が安定して自然に対する関心を育てていく。
「丈夫な体」
- 歩く、走る、跳ぶなどの活動を十分に楽しみ、元気に遊ぶ。
- ・病気にならない体力づくりを目指して、規則正しい生活習慣を送る。
「考える頭」
- 生活の中で、言葉への興味や関心を育て、豊な情操、思考力、表現の基礎を養う。
- 友達との体験を積極的に感じ取り、創造性の芽生えを養う。
【出典】保育理念|社会福祉法人新星会 双葉保育園(公式ホームページ)
園児の前に保育士達が「やさしい心」や「考える頭」が不足していたのではないだろうか?と思える内容だ。
連続するミキサーへの落下事故
この記事を書いている時に、東京府中市でミキサーに落下する事故が起きたことが報道されていた。
昨年も何度かミキサーに落下する事故が起きていたが、落下すれば死につながるにも関わらず、なぜ、こんなにもミキサーに落下してしまう事故が起きるのだろうか?
企業の安全管理が指摘されているが、本当にそれだけだろうか?
報道ではなぜ事故が起きたかのかは書かれていないので原因はわからないが、落下した人には安全帯をつけなくても「大丈夫だろう」という気持ちがあったのではないだろうか?
企業の安全管理も必要だが、自分の身は自分で守ることも重要だと思う。
機械設備の点検や修理をする時に安全装置が働くと一々解除しないといけないから面倒だと安全装置のセンサーを無効にして作業をした結果、怪我をしたという話はよく聞く。
サファリパークで飼育員が虎に襲われる
2022年1月5日には、サファリパークで、20代飼育員の男女3人がトラ1頭にかまれる事故が起きている。
通常は虎を展示スペースから飼育スペースに入れてから、スペース間の通路の柵を下ろすことになっていたが事故が起きた時には確認をしていなかったという。
これも、虎が飼育スペースに戻ったことを確認しなかったのは、「大丈夫だろう」という気の緩みから確認を怠ったのだと思う。
免停中の運転
昨年、東京都議が免停中に運転を行い事故を起こして大きな問題になり都議を辞職している。
そんなことが昨年あったにも関わらず、2021年12月10日に消防本部の隊員が免停中にも関わらず救急搬送のために何度も運転をしていたが救急車で物損事故を起こして発覚した。
2022年1月7日には教育委員会の職員が免停中にも関わらず自家用車で通勤、それだけではなく公用車まで運転していた。
更には2022年1月9日には市議会議員が免停中に郵便局に行くために運転を行い事故を起こしている。
これらは全て、免停中でも運転技術には変わりはない。見つからなければ「大丈夫だろう」と考えて運転してしまったものと思われる。
家飲みによる飲酒運転
最近は飲酒運転については報道が減っているが、新型コロナで家飲みの機会が増えたことから、飲酒運転を行っている人が増えているということを聞いている。
これは、報道されている以上に多いようで、大変、危険な状態だと思う。
これも、「大丈夫だろう」という気の緩みから行ってしまうのだと思うが、これは免停で運転するよりも悪質だと思う。
酔っていて適切な判断、反応ができない状態で運転しているのだから、これで「大丈夫だろう」なんてことは絶対にない。
「大丈夫だろう」は大丈夫ではない。
自分は「大丈夫だろう」ということで、起きている事故が多いと思っている。
これまで何もなかったから大丈夫、見つからなければ大丈夫。
そこには「面倒」という気持ちが背景にあるのではないだろうか?
これまで一回も起きてないのに点検しても意味ない、安全装置は点検や保守作業の邪魔だから、自動車を運転していて免許証の確認なんてされたことはない。免停になったことを報告すると面倒だから黙っていよう。コンビニに行きたいが歩いて行くのは面倒。車なら5分もかからない距離なので飲酒運転が見つかることはない。
これらは全て自分に都合が良いことしか考えていない。
年賀状は出したくないが、読むのは楽しいというアンケート結果があった。
随分と勝手な答えだと思ったが、自分を含めて本心は同じ人が多いのではないか?
「面倒」という気持ちが都合の良い判断をさせて「大丈夫だろう」と思わせてしまう。
これを修正して「アップデート」しないとシステムだけでは事故はなくならない。
むしろ、自分に楽をさせることになるので気の緩みを増長させることになる。
「無駄」をなくさないといけないという風潮が強くなり過ぎて「面倒」なことが「無駄」にされてしまっている部分も感じられる。
これまで大丈夫だったから今後も大丈夫だという保証はないし、見つからなければ大丈夫というのも見つからない保証なんてないし、そんな考えをしている時点で大丈夫なはずがない。
便利が堕落させている
どんどん世の中は便利になっている。
家電製品の進化、24時間営業の店、フードデリバリー、ネット通販・・・
しかし便利になったことで、ちょっとしたことが「面倒」だと感じるようになってしまっている。
歩いて10分の距離にコンビニがあるのに面倒だと感じる。
年賀状も年賀状ソフトで手書きは、殆どないのに面談になる。
車を降りる時に暑い夏の日に忘れ物チェックは面倒。
こうやって楽をすることに慣れてしまったことが、人間をダメにしてしまったのではないだろうか?
楽に生きることを捨てる
書を捨てて町に出ようと言う言葉がある。
現実は、書物の中にあるのではなく、人々が生きている町の中にあると言った意味だと思う。
今は、さしずめ、「楽に生きることを捨てて、面倒に生きよう」という感じではないかと思う。
面倒なことをするのは「我慢」が必要で、楽なことばかりしていると「我慢」のリミットがどんどん下がっていく。
今、直ぐにキレる人が増えているのは、楽ばかりを経験しているので、「我慢」のリミットが下がり続けているからだと思う。
このままでは、どんどん「我慢」の限界点が下がり続けるので、「我慢」を経験することが今後、必要になっていくのではないだろうか?