大福餅
大福って、餅の部分がきめ細やかで、中の餡も甘すぎず美味しいのですが、1個が僕にとっては大き過ぎるので、あまり買うことがありませんでした。
最近は、近所のスーパーでも一口サイズの大福も販売されていて、これが意外と美味しんです。しかも日持ちもするので何かと重宝します。
一口さいずが普及したおかげで、僕も大福を食べることができるようになりました(笑)
そんな大福ですが、起源は、今の東京都文京区小石川御箪笥町(おたんすまち)に住んでいたお玉(おたよとも呼ばれてます)さんが作ったお多福餅が前身だと言われています。
お玉は、生活に困っていました。
一生懸命考えたのでしょう。そして生きるために餅を売ることを思いつきました。その餅の中には砂糖入りの小豆餅を入れて包み、冬の寒い江戸の夜に売り歩きました。これより前に、塩餡のうずら餅というものがありましたが、お玉はそれを砂糖餡にして、かごに火鉢を入れて、焼き鍋を置き、寒い夜に熱々のお多福餅を売ったのです。それから10数年後に、江戸で大福餅となり、ブームになり、広まっていったそうです。
熱々のお多福餅が前身で、それが大福餅になったんですね。
余った大福を焼いたりして食べるというのは、大福、本来の姿ってことなんですね。
お多福餅を食べたことも見たこともないので、どんなものかは、わかりませんが腹太餅(はらぶともち)とも呼ばれ、塩味の餡をたっぷり入れて丸く膨らんだ形をしていたようです。腹太餅を小さくして餡に砂糖を混ぜて甘くしたことで江戸で人気となり各地に広まっていったということらしいです。
赤福餅
大福と並び、もう一つ、餡と餅を使った
有名な和菓子に赤福があります。
赤福と言えば伊勢の名物ですね。
赤福の由来は・・・
赤福餅の誕生は、宝永四年(1707年)お餅の上にこし餡をのせた餅菓子です。形は伊勢神宮神域を流れる五十鈴川のせせらぎをかたどり、餡につけた三筋の形は清流、白いお餅は川底の小石を表しています。名は「赤心慶福(せきしんけいふく)」の言葉からに文字をいただき、「赤福」と名付けたと言い伝えられております。
名は体を表すと言いますが、赤福の3つの筋の白い餅は実にうまく表現されていると思います。
赤心慶福という言葉ですが、「赤子のように、偽りのない真心を持って自分や他人の幸せを喜ぶ」という意味があるそうです。
Wikipediaによると、赤福は、あんころ餅の一種だと書かれてます。
松任のあんころ餅
あんころ餅と言われると、石川県の人は、松任市(現:白山市)の「あんころ餅」を思い浮かべるはずです。
金沢では、あんころと呼ばれ、以前、松任駅で売られていたので、松任駅の近くまで行った時には、あんころを買いに行ったものです、
僕が知ってるあんころは、座布団の様になっていて餅を包む餡が衣の様に見えることから、あんころと言われています。
あんころは、下図のように竹の葉に包まれています。
竹の葉にしおりが挟まれていて、園八のあんころ餅の起こりが、むかしばなしとして書かれています。
元文2年(1737年)6月、村山家2世の主が42歳の時、何を思ったのか、裏庭に羅漢柏の苗木を植え、「わが願いがかなったら、大きく茂ろ」と深く祈り、翌日の夕方、妻子を残して行方不明になったそうです。
妻子は生活苦に悩まされましたが、その年の秋の真夜中、妻の夢枕に天狗の姿になった夫が立ち、「私は京都の鞍馬山で天狗について修行している。今お前に教えることがある。これこれの作り方で餅を餡で包んで食べれば、息災延命、商売繁盛となろう」と告げて姿を消しました。
赤福とあんころ餅って確かに似てるなぁ~ってずっと思ってました。
餅と餡を考えたときに、普通は餡を餅で包みたくなると思います。
つまり大福の状態が僕は普通の発想だと思います。
しかし、赤福もあんころも大福とは逆で餡の中に餅が入っています。
普通ではない発想が異なる場所で一致しているんですよね。
旅先などで食べて美味しかったので地元に帰っても食べたいと思いますよね。
しかし、赤福も、あんころ餅も日持ちはしません。
今とは異なり、その日の内に移動できるなんてことは考えられなかったでしょうから、
また食べたいなぁと思うと、自分で作ってみることになります。
中にはお願いして作り方を教えてもらう人もいたと思います。
そんな感じで日本中に拡がっていったのかな?って思います。
そんなことを考えていると、大福・赤福・あんころ、どれが真似をしたとか、真似をされたってことよりも、昔の人達の知恵が、どんな風に広まっていったんだろう?ってことが凄く気になってしまいました。